2011年11月20日

湖畔

窓の外には月が半分だけ見えている。
鋭利な刃物で切られてしまった果実のように。半分だけ。宙空に。
そしてもう半分は、大地に浮かんでいた。
湖でもあるのだろう。月灯りで赤く染まった樹々もシンメトリィに、見える。
気付けば、私は見覚えのない空間に居た。
木造の床。漆喰の壁。高い天井からは豪奢なシャンデリアがぶら下がっている。
正面には子どもを抱いた女性の絵画が飾られている。
と、ボーン、ボーンと時計の鳴る音が聞こえた。
音のする方へ目を遣ると、古めかしい大きな時計が目に入った。
ローマ数字の記された円の上で長針と短針が時を刻んでいる。
チク、タク、チク、タク。振り子が音を立てて、左右に揺れる。
チク、タク、チク、タク−−。
不意に振り子の音に、カツカツカツと云う跫が被さり、近付いてきた。
そして、その実体は程なくして私の前に現れた。
黒い鍔広の帽子に、黒のプリーツのスカート、黒いシャツ。
短く結ばれたネクタイだけが赤かった。
「御機嫌よう」彼女はそう言って、夜だと云うのに開かれた日傘をクルクルと回した。
月の灯りが彼女を照らしている。陶製の人形のように、真白い肌。黒く長い髪。長い睫毛。唇の赤が林檎のようだった。その唇が動く。そして、唐突に物語が始まり出す。
「この世界は、秋の終わりにだけ現れる世界なのです」
「秋の終わりにだけ」彼女の言葉を私は反芻した。
そうなのです、と彼女は悲しい表情を浮かべて頷く。
「秋の終わりにだけ、現れるのです。正確には、あの湖に映る木々が色づいている間だけ−−」
彼女が指を窓の外に向けた。「あそこに人が立っているのが見えるでしょうか」そう言って、湖の辺りを指して。細く長い指だった。
「彼がこの家の主です。彼は小さな工場主の家に生まれました。幼い頃から父を手伝い、父が病気に罹り、仕事ができなくなると父のあとを継ぐようになりました。勤勉だった彼は、あれこれと工夫をし、工場をどんどん大きくしていきました。そして工場をいくつも経営し、遠くの国にまで脚を伸ばして取引をするようになり−−富を得るまでになったのです」
湖の畔に男がひとり居るのが見えた。
年齢も、表情も細かくは分からなかったが、どことなく寂しげな雰囲気が漂っていた。
「彼は富を築き、名声を得ました。しかし、彼にも悩みはありました。
心から女性を愛したことがなかったのです。若い頃は、若さゆえに恋もしましたが、未熟ゆえの結末を迎え、青年期には仕事が生活を支配し、地位が安定してくると寄ってくる女性の下心ばかりが気になり−−。
ですが、彼は心を許せる女性を欲しいと思っていたのです。何があっても愛せる女性を欲しいと。それは歳を重ねるごとに強くなっていきました。
そして、彼は神に祈ったのです。心から愛することができる女性が現れますように、何があっても愛せる女性を下さい、と。
すると、或る秋の日、ひとりの女性と出逢いました。森で見かけた鹿を追いかけているうちにこの湖まで来てしまったのだとか。女は見窄らしい装いでしたが、とても美しい顔をしていました。彼は、その女にひと目で恋に落ちました。彼は神の導きであると思ったのです。ふたりはともに暮らすように幸せな時間を過ごしましたが、長くは続きませんでした。女が原因の判らない病に罹ってしまったからです。
男は名医がいると聞けば名医を呼び、良薬があると聞けば取り寄せましたが、一向に回復の兆しは見えませんでした。
女の治らない病気に悩んだ主は、神に祈りました。しかし神はその願いを聞いてはくれませんでした。もうすでにひとつ願い事を聞いてしまっていたからです。
それで−−今度は悪魔と取引をすることにしたのです。
女の病を治して下さい、と黒いミサをしながら彼は祈りました。
すると長い耳を生やした悪魔は現れ、ではお前の命と引き換えならどうだろう、と言いました。男は悩みました。病気が治っても、自分が居なくなってしまっては、女は悲しむばかりだろうと。しかし、このままでは−−。
そこで彼は、ただひとつだけ条件をつけることにしました。
−−あの樹々が色づいている間だけ、この世界に戻して欲しい、と。女と出会ったこの季節に、ふたりで、あの樹々を眺めたい−−そう条件をつけて。
悪魔は軽く笑うと、その条件に頷きました。
それからです。この季節になるとあの湖の畔に男が現れるようになったのは。
女の病気は治り、幾年もこの時季にふたりはあの場所で幸せな時間を過ごしました。
しかし、もう、女は年老いてこの世を去ったと云うのに、男だけがあの場所に取残され−−」
チク、タク、チク、タク−−彼女の唇が停まるとともに、またしても時計の音が聞こえてきた。
湖の畔では、彼の姿を月灯りが浮かび上がらせている。
チク、タク、チク、タク、チク、タク、チク、タク。
「秋の夜には、空しきものばかりが浮かび上がってくるのです」
振り子の音の間で、消え入るように声がした。
だが、その声の方を見ても、黒い服の彼女はもう、居なかった。


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2011年11月12日

首淫

首の綺麗な女だった。
首は白鳥のように細く長く、百合や薔薇の茎や蔓のように気品に充ちていた。
肌の色は、雪が降ったような白さだった。

私はいつもの彼女の首を如何に美しく演出するかに心を砕いた。
胸元の開いたドレスを着せ、象牙や琥珀、アクアマリン−−様々なトップのネックレスを贈った。黒く長い髪も素敵だったが、項が見えるよう高い位置で留めさせた。
いつかどこかで見た、古い映画の女優のような姿だった。

週末には二人だけの夜想会をよく開いた。
出席者は私と彼女だけだった。
青や緑のシックで艶やかなドレスを纏った彼女とワルツを踊り、イタリア産の果実酒を楽しんだ。白い肌の彼女には青や緑の清楚なドレスが良く似合っていた。

レコードに針を落とし、手を取り合ってゆっくりと輪舞する。
くるくると廻りつつ、私の目は彼女の顔を捉えながら、やはり首に見蕩れていた。
白く細く、長い首に。
彼女の存在も素敵であったが、もっとも私の目を惹いたのは、瞳や唇よりも首だった。

本当の愉しみは宴の後だった。
彼女の手を取って寝室まで案内するとワイングラスをブランデーグラスに替え、高貴な香りで口を濡らし、彼女の唇に唇を重ねた。
何度も重ねた。軽いものもあれば、深いものもあった。

官能性が増してくると私の唇は彼女の首に移った。
白い首を慈しむように口づけをし、そして徐々に、子どもがアイスクリームを楽しむように私もそうした。

ドレスを剥ぎ取り、白い肌を露にさせる。
下着は−−花嫁の下着のように、真白いコルセットと、白いガータベルト、白いストッキングも着けたままである。
四肢も細く、魅力的である。
私は、そのひとつひとつにも口づけを施していった。
彼女は優雅でありながら、官能性を持って口づけに応えた。
場所によっては艶かしい声が漏れた。

手に、脚に、口づけを施すと、私の唇は鎖骨に移り、首に戻った。
そして、コルセットの剥ぎ取り、その下に潜んでいた赤い実へと移した。
赤い実を小鳥のように啄んだ際に漏れた女の声は、ブランデーに落としたスターアニスの香りのように、魅惑的に響いた。

女の上に身体を重ねて行為に及んでいる間も、彼女の首が気になって仕方がなかった。私の興奮している感情の多くが、美しい首によるものだった。
強く抱きしめながら、何度も首を愛撫した。
甘く噛み、強く吸い、優しく舌をあてた。

私は彼女の首をどうしたかったのだろう。
あの美しい首を。
ときどき思い出すのだが、最も興奮したのは、あの首に私の唇の痕を残したことよりも、きつく両の手で締めたときであった。
美しく儚いないものが、この私の手の中で−−と思うとそれまでに味わったことのない、背徳を背にしたような歪な興奮が訪れて、私は果ててしまった。

女の写真を見るたびに不思議な感情が、冬の白鳥のように飛来してくる。
posted by flower at 15:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 淫詩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月05日

月鳴鳥

皮肉なことに、まともに生きようとするほどに、変なものに遭遇してしまう、と云う人種があるとすれば、それには間違いなく私も属することだろう。これは一週間ほど前の奇妙な体験である。
たまに訪れるN町の古いバーで飲んでいたのだが、あまり見ない客が入ってきたのだ。
シルバーグレイの髪やチョコレート色のスーツの着こなしなど容姿は幾分若く見えたが、会話や動きの端々に傘寿は過ぎた気配が見られる御仁だった。
何となく旅に出たくなって、ひとりで出てきたそうで、御仁が隣に腰を下ろした縁もあり、同じくひとり客であった私は彼と言葉を交わすことになった。
初めのうちは旅の話、何とはない生活の話、食べものの話など、どうでもいい会話ばかりをしていたのだが。
ふと、唐突に彼は鳥の話をしだしたのである。

ゲツメイチョウと云う鳥をご存知だろうか。
和名ではそう呼ばれており、漢字では、月に鳴く鳥と書くのだが。
月に向かって鳴く姿から、月から来た歌い手、と呼ぶ地域もあるとか。
海外では澄んだ夜空に響く美しき鳴き声や、月光を浴びて濃い群青の空に神々しい軌跡を描くことから神聖なるものとして扱われていることが多いようだ。
しかし、私の集落では、死人の魂を迎えに来る鳥、と呼ばれていた。
極楽浄土からの使者として伝えられていたのだ。
私はこれまでに三度、その鳥を見た。
一度目はまん丸い月がぽっかりと晩秋の空に浮かんでいたときである。
そのときは、村外れに住む叔母の家へ届け物に行った帰りだった。
久しぶりの訪問と云うこともあり、あれを食べろ、これを食べろ、ともてなしを受けているうちに結構な遅い時間になってしまっていた。
叔母は泊まっていけと云ったが、私は家で待つ母や兄妹たちのことが気になり、帰ることにしたのだった。
街灯もなく、月の明かりだけが頼りの道だった。
とぼとぼと歩いていると、少し先の辺りからホーロロホーロロと声がした。
フクロウやミミズクの声にしては変だなと思った程度で、それが月鳴鳥の声だとは全然思わなかった。ただ、そこに何がいるのだろうと思いその辺りへ近付いていくと、鳥がバサバサと羽を動かして飛んでいった。金色の軌跡を残して。
月の明かりに照らされたその姿は神々しいとしか言い様がなかった。
後日、その先にあった家で不幸があったことを叔母から聞いた。
二度目は、それから三十年後のことである。
それは自分の妹を看取ったときのことであった。
風邪をきっかけに急激に体調を崩した妹はいつしか、鳥が見ている、と家族に譫言のように繰返し言っていたそうだ。
離れて生活をしていた私は、妹が危篤の報を聞いて急いで向かったのだが、妹のいる家に近付く汽車の窓から、あの鳥が飛んでいくのが見えたのだ。そのときも金色の軌跡を描いて。
妹のもとに着いたときには既に息を引取っていた。
私が月鳴鳥を見た時刻が、妹の心肺が停まった頃だったそうだ。

そして、その三度目が今、目の前にある。
貴方には見えていないかも知れないが、いま目の前に美しい鳥が居て、私を見つめているのだ。私は間もなく眼を瞑り、心肺が停まるのを感じるのだろう。

彼はそう言うとお金を払い、ホテルへと帰っていった。
私は御仁が心配になり、宿まで送ったのだったが、別段そのときは何でもなかった。
別れる際に、夜空に金色の軌跡があったなら、私だと思ってくれと云われたのだが、結局のところ私は何かの冗談だろうと、どこか思っていた。

翌日のことである。
御仁が気になりホテルまで行くと、未明に亡くなられたと云うことであった。
聞けば、その筋では名の通った画家だったそうだ。
しばしフロントで感慨に浸っていると、ロビーにあった古いカラクリ時計がちょうど14時を指し、木彫りの鳩が顔を出して二度鳴いた。
残念ながら渇いた声がしただけだった。

posted by flower at 15:30| Comment(0) | TrackBack(0) | novel | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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