2012年02月18日

カノン

店内には客はおらず、スピーカーからはバッハベルのカノンが流れている。
マスター、ぼんやりと窓の外を眺めている。
「どうしたんですか?」とバイトの女の子、心配そうに。コーヒーカップを手に。
ちょっとね、とマスター、呟くように言って、ため息をひとつ。
「昨日、師匠みたいな人が亡くなってね。師匠っていうとヘンなんだけど。友だちでもないし、先輩でもないんだよね。具体的に何かを教わったわけでもないから、師匠っていうのもヘンでね。ただ、お世話になった、というだけでもないし。父親のようであり、おじいちゃんのようでもあり、友だちのようでもありっていう。ヘンな関係の人だね」
女の子がコーヒーを啜りながら頷く。
「何も教わってないこともないんだけど。教わったのは、どれもどうでも良いことばっかりでね。でも、知ってたら世界が愉しくなるっていう。前にも言ったけど、コロッケうどんとか、月亭花鳥の面白さとか、オンナゴコロについてとか」
マスター、笑いの混じったため息を漏らす。
「どこで知合ったんです? その方と」
マスター、一瞬考えて、
「15年くらい前になるかな。不思議な出会いだったね。当時好きなミュージシャンがいて、その音源ばかり聞いてたんだけど。結構昔のミュージシャンなんだけどね。
で、たまたま知合った自転車屋のオッサンていうのが、そのミュージシャンの事務所のスタッフだったていう、それだけなんだけど。とても遠い存在が一気に短くなってね。
知合ったときっていうのは、音楽とは全く無関係な政治関連の集会だったんだけど、ずっと音楽の話をしてたよ。それから、ずっと不思議な関係だったね」
女の子がマスターの目を見つめたまま、頷く。
「自転車屋以外に、カフェとか、内装業とか、デザインとかもしていてね。哲学とか、政治とか、人生論とか話すんだけど、同じレベルで音楽があって、美術があって、俗っぽいものがあって、料理があって−−。世界中のいろんなものが同じレベルで存在してるんだよ。適当でありながらテキトーではないんだね。
波長が合ったて言うのかな。何を話しても良いし、詳しく説明しなくても大丈夫っていう。見た目の雰囲気も似てたから、親子に間違われたこともあったよ」
マスター、煙草を取り出してくわえる。火を点けて、深く吸い込んで−−吐く。
「ちょっと見てみたかったですね」
「たぶん、見ていたら笑えるんじゃないかな。オレがふたりっていう感じで。
だけど、長いこと会ってなくてね。ひと月前に入院したって人伝に聞いたんだけど、また会えるだろう、ぐらいにしか思ってなかったから、見舞いにも行かなかったんだよ」
マスター、火の点いた煙草の先を見つめている。
「この曲は、そのオッサンの好きな曲でね」しみじみと頷いて、
「本当にヘンな人だったな」
女の子、ちょっとだけ笑って、「マスターがヘンな人って言うんだから、よほどヘンだったんでしょうね」と。
「まあ、道楽の人、だったからね。そこで共感してたんだと思う。あんまりいないから。
道楽って結構、知性が必要だから。亜沙美さんには難しいかも」マスター、ヒニクめいた笑みを浮かべる。
「失礼ですね。私、これでも知性の人って言われるんですからね、周りから」
「ヤマイダレの?」
マスターの言葉に、女の子の頬が膨れる。
それを見て、マスター、カラカラと笑い声を立てて。
窓の外では雪が舞って。レコード針が時を刻んでいく。
posted by flower at 12:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 喫茶 ベダード   | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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