2014年08月18日

思い出

「マスターの夏の思い出って何ですか?」とバイトの女の子、ファッション雑誌のページをめくりながら。
「怖い思い出と、恥ずかしい思い出と、悔しい思い出があるよ。どれが聞きたい?」とマスター、新聞に目を落としながら。
お盆明けの昼下がり、喫茶店の店内には人気がなく、スピーカーからはゆったりしたボサノバが流れている。
「相変わらずネタが多いですね」と女の子。「全部聞いてみたいですけど」
マスター、新聞から顔を上げて、女の子の方を見る。そして、煙草を取り出し、火を点けてくわえる。
「まず怖い話は、学生の頃に夏休みに自転車でフラッと旅をしたんだけど。そのときに泊まった宿で、夜中に隣の部屋から女の人が話す声がしてきて。独り言のようなんだけどヘンな様子でね。まぁ、世の中にはいろいろな人がいるからと、大して気にもせずに寝たんだけど、次の朝の食事のときに、宿の人に『隣にもお客さんが居たんですね』って聞いたら、『いません』って怪訝そうな顔で言われてね。夢でも見たのかなって思ったんだけど−−。しばらくしたら、新聞にそこの記事が載ってて、『屋根裏から女性の白骨死体見つかる』って内容で。どういう経緯か分からないけど、あれはその声だったのかって」
「その死体は何だったんですかね?」女の子、眉を顰めた表情で。
「詳しくは分からないけど、中古物件で買った家を宿にしてたみたいで、その前の所有者を調べてるとか、そんなのが載ってたな。まぁ、結局は謎だけど」
マスター、煙草をプカプカやって。
「で、恥ずかしい話は、中学のときに、テレビでノーパン健康法って云うのを見て、夏に実践してみたんだよ。そしたら朝になったらパンツを履いていてね。寝惚けて履いたのかなって思ってたんだけど、朝ご飯のときに『あんな寝方してたら、お腹冷えるよ』って、母親に」
女の子の鼻から息が漏れる。「それは確かに恥ずかしいですね」
「生きてるといろいろあるよ」マスター、短くなった煙草を灰皿に押し潰して、新たな一本を取り出す。そして、指の先でくるくる回す。
「で、悔しい思い出って云うのが、店を始めたくらいのときに、お客さんで国際線のスチュワーデスがいたんだけど、その人に海に誘われてね。『友だちも誘って、一泊二日で』って。だけど夏の海って暑いし、人が多いでしょ? それで思わず断ってしまったんだよ。今思うと、あれは我が人生における唯一にして最大のイベントだったんだなと。全てを放り捨ててでも行くべきだったんだと毎年後悔するんだよ」
マスター、くるくる回していた煙草に火を点け、大きく吸い込む。
「何と云うか、残念な人生ですね。ある意味でマスターの人生を象徴しているような」
「あれが別荘とか、湖だったら喜んで行ったんだけど。海って云うのがね」
「たぶん、そう云う、どこか高飛車なところが人生に停滞感を生み出しているんじゃないですか」女の子、苦笑いとともに呆れたような息を漏らす。
マスター、煙をこぼすように吐きながら頷く。「亜沙美さんは、夏の思い出は?」
「何年か前なんですけど。すごい暑い日にスーパーに行ったら、アイスのセールをやってて。思わず、レディボーデンの大きなヤツを三つも買ってしまったんですよ。で、下宿で涼みながら食べてたら、気になる男の子から『今夜の花火大会観に行かない?』って連絡がきて。喜んで行ったんですよ、気合いを入れてメイクして、浴衣来て。もしかしたら今夜結ばれるかもって期待してたんですけど、途中からモーレツな腹痛に襲われて。脂汗を流しながらトイレへ駆け込むと云う醜態を−−。結局、何も楽しめず、ましてアバンチュールもなく−−。帰りに薬局で正露丸を買ってもらうと云う−−」
「何とも、オソマツな−−」
微妙な空気の中、二人それぞれに時計を見る。針は午後二時を指そうとしている。
「生きているといろいろあるね」と云うマスターの声に、女の子「そうですね」と頷き、店内に時計の鐘が二つ鳴り響く。窓の外では蝉の啼く声が大きくなり−−。


posted by flower at 19:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 喫茶 ベダード   | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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