2012年05月27日

金譚

 いやぁ、景気が良かったことなんかあるんですかね。ワタクシの人生で景気の良かった頃なんか、地平線よりも遥か遠く、土星のワッカぐらい遠いですよ。何万光年も先ですね。ははは。もはや蜃気楼です。もう今では、何処言っても「アキマヘン」「オ上ニ殺サレテシマイマス」そんな言葉ばかりです。ホントに。
 固まり過ぎて右にも左にも回らない首が、ミシミシと締められています。とてもとても、単純に苦しい、なんて軽いモノではございません。ぐうの音も出ない程です。お腹はぐうぐう鳴りっぱなしですが、はははは。
 こう、毎日毎日梅雨の長雨みたいにネチョネチョと湿った中で生きていますと、身体がクサって、気がヘンになっちまいますね。いやぁ、ホントに。もう、好景気なんて言葉、もはや絶滅寸前のニッポニア・ニッポン並に目にすることのないものでやんすね。ははは。景気が悪すぎて生きてるのがメンドウな時代です。タダ生きているだけで、ホケンリョウ、ジュウミンゼイ、ネンキンが法律ってアホみたいなタイギでもっていかれっちまうんだから、ああイヤになっちまいますよ。稼ぎはなくとも国の下支えです。まさに人柱。公僕よりも下ですからね。もはや、生きるキボウはキホウですね、日々の泡。ホントに。プクッ、プクッと水面に浮かんでは消える、悲しきアワですな。人生、ムナシイカギリです。プクッ、プクッと汚泥から沸き上るガスですかね。ああ。
 これが徳川公の時分なら「まぁこんなときは、せめてバカな話でも聞いて」と、憂さのひとつも、ふたつも、みっつも晴らしたもんでしょうねぇ。
 金があれば落語の寄席にでも行きたいものですが、しかしながら、木戸を潜る銭もなしってな具合。ナントモ、ナントモ。
 えー、ナンですが、ここで恥ずかしながら、本日は、ワタクシがお金にまつわる話を「えーでは、毎度のバカバカしい話ではございますが」と、やらさせていただきます。クダラナイ素人話でございますが、皆様の苦労に満ちた日々の、些かでも慰労になればと思います。一応、景気のいい話でございます。何たって、大金が一晩に、ぱぁっとなくなった話ですから。ははは。

 どうでもいい話ですが、ワタクシ、競馬で勝った日にはちょっとだけ好いものを喰うってことにしてるんです。ナニ、そんな大した贅沢ではございません。ビールを飲みながら、ちょっと江戸前のお寿司をつまんで、串カツを数本食べて、仕上げにキレイな女給のいるスナックでゆっくり、ゆっくりとスコッチウィスキーを呑むってな具合なんですが。まぁ、大した額ではございません。大臣やエラいセンセの遊び代の十分の一にもなりません。わかりますか、センセ方、この庶民のツツマシイセイカツが。
 まあまあまあ。えー、そんなわけでワタクシ、その日は競馬で勝ちまして−−。
 そう、その日はハジメっからキましてね。第1レースで4番のマッカナタイヨウと8番ツキノハジメを当てたんですが、ここからホントにツキがキましてね。賭ける馬賭ける馬、全部お金を何倍にもしてくれるんですから。いやぁ、まさにシアワセですよ。
 全部のレースが終わって帰る頃には軍資金が何十倍にもなってましたからね。ボロボロの財布が壊れそうなほどにです。いやぁホントにパンパンで、真っ先に新調したいと思いましたよ。それほどの大金がコロンコロンと転がり込んできましてね。一度も会ったことのない神様に感謝しましたよ。神様はたまにシアワセを与えてくれるんですね。九割はビンボウクジなんですが、世を儚んで死なない程度にシアワセを与えてくれる、生きていればオイシい目に遭えますよ、なんてね。イケね、こんなこと言ってると一割のシアワセもなくなっちまうからね。神様、アリガト。感謝してますよ、ホント。
 ええ、そんな具合でですね、大金を手にして、その日ばかりはいい気になって競馬場を後にしたんです。こんなに勝ったのは久しくなかったんですからね。いつもは素寒ピンでオケラ街道マッシグラですよ。ははは。その日は口笛を吹いてね、コルトレーンさんのマイフェイバリットナントカを。ブルースのレコードなんかの名うてのハモニカ吹きみたいに、ビブラート効かせながら。ワタシの好きなお金を、お馬さんアリガトウ、なんて気持ちでね。古典的な表現ですが、不思議なもんで、気分が良いと口笛が自然に出ちまうもんですね。ホント。
 で、その脚で向かったのは、もちろん寿司屋ですよ。いつもは厚みの全くないサバがのったバッテラとか、おいなりさんとか太巻きとかゲソばっかりですが、もうその日は気分はいいですからね。ガラスケースの中の、竜宮城ではありませんが、鯛やひらめがひしめく、宝石箱の中身のようなネタを見まして、ああ、もう今宵はこれを腹一杯喰ってやろうじゃないかってな具合で、ボロいサイフのヒモを全開まで緩めましてね。ひとまず祝杯に、瓶ビールをグラスに手酌で注いでグイッとやって喉を潤しまして、さぁ、何を食べようかと。
 まずは一カンで千円はする大トロ、これを二カン。そして形のキレイなウニ、柔らかく煮たアワビ、色鮮やかな赤貝、大きな穴子、なんてのを握ってもらいましてね。ほぅ、口の中でトロける、ウニの粒が立ってる、ああアワビのこの優しい歯応えと旨味、コリコリした赤貝、甘辛いタレとマリアージュした炙り穴子。あにはからんや。
 最初は若いオネエちゃんみたいにピチピチの魚や貝の競演に感動しながらつまんでいたんですが、しかし悲しいかな、ネが貧乏人なんでね、後はアジにイワシに、イカ、ハマチ。結局、いつも食べるものになっちまうんです。イヤなもんですよ、貧乏性は。たぶんシャリよりもガリつまんでる方が多いですからね。ははは。
 先ほどはちょっと見栄張って言いましたが、だいたい大トロなんか、トロけるなんつってもアブラっぽいだけで、三カンはダメだね。もう、胸がいっぱいになっちまう。酒だって、なんか重く感じっちまう。マグロはやっぱりヅケかネギトロだね。だいたい上等なものはそんなに食べられない。クドくなっちまうからね。だったらショウガののった青魚ですよ。これが間違いなく酒に合う。ビールにだって、日本酒にだって、ワインにだって合うんだから。ホントですよ。品のあるアブラって云うとなんですが、醤油につけた時にワッと輪が広がる、あのアブラですね、これをショウガがグッと引き締めましてね。ワッと広がって、グッと締める、これですよ。これがアジ、サバ、サンマ、イワシにコハダの醍醐味ですね。庶民の味方ですよ。まぁ、センセ方が行くギンザなんかの高い寿司屋なら勝手が違うんでしょうが、ワタクシ御用達の歌舞伎寿しならこれがイチバンです。なんたって、ゲソが二カンで六十円ですからね。高い魚なんか滅多に出ない。ははは。
 まぁそんなふうにですね、白木のカウンターで寿司をつまんで、酒を呑んでると、目の前のガラスケースに見慣れないものがありましてね。ちょっと赤黒い、魚肉とは違う質感のものが。クジラかとも思ったんですが、ちょっと違うようで、タコ八郎に似たオヤジに訊いたんです、これは何ぞや、と。そうしたら「馬」って云うんです。馬ですよ、馬。ワタクシの冷えきった懐に、ハワイのビーチと、マウイ島とピナツボ火山を運んで来てくれた、あの馬。そのお肉。
 タコ八郎に似たオヤジが続けて云うんですよ。「これは田舎の友人の土産でね。新鮮で馬いんだから、間違いない」ってね。そんなふうに云われたら食べないとオトコがスタルってなもんですよ。
 馬に感謝して、馬を戴く。馬を血肉として、また、勝たしておくれよ、そんなことを思いながら、さっと益子の角皿に盛られて出てきたソイツを箸でつまみ、醤油で食べようとするとオヤジが、これを醤油に溶かしてみなと赤い味噌みたいな、皿の隅っこに漏られたものを指して云う。それでその味噌みたいなヤツを醤油に溶かして、馬肉につけて口に運ぶ、とまず、その味噌みたいのがニンニクが効いていて、芳ばしい香りが口ん中に広がって、そして、肉のコリコリと云うか、柔らかくも歯応えのある食感がうまいのなんのって。いやぁ、馬に掛けたわけではないんですよ、そんなこたぁ、はははは。
 「タテガミなんてのもありますけど」と大将が云うので、それもいただいて。馬完食です。これで精も付いたし、きっと次回も勝つ事間違いなしと思っていたんですが。しかし−−この辺りでツキが切れたようなんですな。いやナニ、そんな店出てすぐにクルマにはねられて、なんてことではなくてですね、運気がまぁ、打ち止めになったような塩梅って云うんですかね。決して、馬が悪いわけではないんですが、競馬で勝った勢いに翳りが出てきたんです。いやぁ、勿論馬はうまかったです。ただ、後で振り返るとそんな気がしたんです。
 寿司屋でそこそこ腹を満たしましてね、勘定を済まして出たんですが、いつもならこの後、角の串カツ屋に真直ぐ入るんですが、ワタクシ、これでも路地裏のブンカジンと呼ばれてまして、まぁ、自称ですがね、ええ、ちょっと久しぶりに金や玉をイジるアレをやろうかと。春の花摘みではございませんよ。いやですねぇ、そんな卑猥なものじゃございません。将棋ですよ、将棋。ワタクシの街にはサロンがありましてね、貧乏人のサロンが。桃色などしていません。どちらかと云えば、ドドメ色です。そこへちょいと顔を出しまして、将棋を指すんです。大衆娯楽ですからね、将棋も。
 で、入ってみるとシローやサリーなんて顔馴染みも居たりするんですが、馴染みは何度もやり過ぎて、手のうちが知れてますから、あんまり面白くない。できれば全然やったことのない人にお相手願いたい、なんて思ってぐるっとサロンの中を見回すと、見たことのない御仁が隅っこで煙草を吹かしていましてね、ちょうど一局終えて休んでる塩梅で。
 初めて見た人だったのでどう声を掛けたものかなって思ったんですが、それよりもちょっと不思議な感じがしたんです。どこがどうってわけでもないんですがね、なんと云いますか、折り紙の奴さんにETを足したような、そうです、あのスピルバーグさんのアレです、指先を伸ばしてきてツンツンするような、あのアレです。
 まぁ、とりあえずと思って「一局、お願いしたいんですが」と声をかけてみたんです。すると「へい」という答えが返ってきて、一局やることになったんですが−−やってみて思ったのが、捉えどころがないんです。
 将棋の手ってのは、何手も先を考えてなんて云いますが、ワタクシも決して弱い方ではないと思っているんですが、この御仁の指し方と云うのが逃げ上手というのか、ふわりと軽く躱すんです。これで逃げ道はないぞ、この一手で決まりだ、えい、なんて駒を置くと、アレ、なんて手が返ってきて、スペインの闘牛みたいにひらりと躱されるんです。なかったはずのところに駒があったり、あるはずのところの駒がなかったり。こちらはアルコールが入ってますから、自分の記憶が問題なのかなと思ってたんですがね。
 一局のつもりだったんですが、結局三局やりまして、全部ワタクシの負けです。酔っているから、と一応言い訳をしてみたんですが、何か違和感のある指し手でしてね、腑に落ちない。しかしまぁ、こちらは競馬の余韻で機嫌はまだ上々でしたし、話すとクセがあって面白い御仁だなと思いまして、ちょっとその後に連れ立って飲み屋に行くことにしたんです。いつもよりもちょいとだけランクの高い、って云っても知れてるんですがね、串カツ屋へ。へへへ。野郎どものお喋りは、まず立ち飲みからって云いますでしょ?あら、知らない? 云うんですよ。何処でかって? まぁ、ナイショです。
 で、店に入りましてあれこれと頼むんですが、そんなに凝ったものはいらないんです。何でもシンプルなものがイチバン。牛と玉ねぎ、レンコン、ししとう、そんなのがいいんです。紅ショウガなんてのも結構オツなもんですよ。で、その揚げたてのアツアツを、指の先で串を持って、銀色の容器に入ったソースにジュッと漬けましてね、ソースがしたたるそれを口の端でカジる、と、サクッとした食感の後に、じわぁっとソースと、揚げられて甘味を増した素材とのハーモニーが広がりましてね。まぁ、音楽に例えますと、ベニー・モーレですね。あんな具合に、豊かで華麗な味のハーモニーが広がるんですよ。ナント、ご存知ない? あのキューバの至宝を。キューバはベースボールやバレーボールしかご存知ない? ああ、あとはゲバラとカストロ、そして、葉巻にラム。ああ、そうですね。間違いないです。
 まぁ、そんなことは置いておきまして、先ほど将棋を指した御仁と串カツをつまみながらビールをクイッとやりましてね、あれこれと話してたんです。最初は世間話ですね、どうでも良いような。国の政治の話だとか、知事さんの話だとか、あとテレビに出てるナントカって人のスキャンダルに、健康法。やいのやいのと話して、野球の話になって。いやぁ、今年はジャイアンツはイマイチですな、とか、タイガースのあの選手がこの前この辺で暴れてましてね、とかまぁ、どうでも良い話です。そんな話をしてますと、よくある話題ですが、お仕事は何を、となったんです。
 ワタクシですか? 申し遅れましてナンですが、一応鍼灸師でございます。お店など持っておりません。お呼びがかかれば西へ東へ北へ南へ、上へ下へと行く『お呼ばれ針師』ですが、まぁ、そんなにお金にはなりません。相手も貧乏人ばかりですからね。お代をお酒でいただいたり、お米でいただくこともあります。先日は山菜と冬虫夏草なんてものいただきました。しかし、お金持ちには成れないですね、はははは。
 で、そちらの御仁はと云いますと、人が居るところで話すのは気が引ける、と云うんです。何かアヤシいお仕事なんだな、と思ったんですが、では河岸を変えましてとなりまして、ちょっとしたスナックへ行きましてね。マチコってママの店なんですが。そこは客も少ないですし、音楽が大きいから、話を聞かれる心配もなさそうだし大丈夫だと判ると、御仁は話しだしたんです。

 「オレは昔、ユイチって呼ばれてましてね。もう、今では昔の話ですが。
 仕事って云いますと、ちょっと言い難いんですが」とユイチさんは右手の人差し指を鉤のように曲げまして、
 「これです」とクイクイと魚でも引っ掛けた釣り針みたいな動きをしたんです。
 「なるほど。釣り竿屋で」
 なんてワタクシが云いますと、ノンノンと首を横に振る。
 「スのつく仕事です」
 スが付いて、指を曲げる仕事、なんて考えましても鈍臭いワタクシの頭に浮かぶものは寿司屋ぐらいなもんです。さっき行きましたからね。果たして、それも違うと云う。まして水道屋でも、相撲取でもない。
 で、何ですか、と訊けば「スリ」と小さな声で答えたんです。
 「スリ!」ワタクシが大きな声を挙げると、人差し指を唇に当てまして、ワタクシを制しましてね、「ダメですよ」と小声で力強く云うんです。
 それまでと打って変わってとても鋭い目でこちらを睨みまして。何と云いましょうか、そのスジの方の見せる目つきですね、アレですよ。それでこちらをクワッと睨みつけましてね。さすがに恐れ入りましたよ。
 見た目は、折り紙の奴さんにETを足したような、と先ほど申しましたが、話を聞けば年は還暦くらいでしょうかね。しかし、歳のわりにはとても血色の良い肌なんです。役者ですとか歌手みたいに芸の道で生きている人が緊張感によって若さを保っていると云いましょうか、裏街道ではあるけれども、人生の疲弊をうまく乗り越えてきたようなふうでございますな。そんな御仁の睨みつける眼力の圧力、驚きと云うよりザッと怜悧な匕首を出された感じでワタクシ、一瞬黙ってしまいました。
 ですが、まぁ、お酒の場に来てますんでね、話さないことにはどうにも気まずいですから当たり障りのない話をしようかと思ったんですが、そんなことがあった後だとちょっと話しにくい。そこで、えいっと思いまして、
 「お仕事でイチバンの思い出って何でしょうか」と訊いてみたんです。特殊なお仕事ですからね。何か武勇伝のひとつくらいあるだろうと思いまして。
 そうしますと御仁、ちょっと考えまして、「ふたつ、あるんです」と云う。
 少しばかり嬉しげと云いますか、やはり、専門職ですから、それなりに誇りを持ってるようで自慢をしたいんでしょうかね。軽く促しただけで、どう話そうかと考えているふうで、唇をペロッと舐めまして。
 それで御仁、ロックにしたスコッチウイスキーで口の中をちょいと湿らせますと、話し始めたんです。
 「ひとつ目は、これはスリの仕事じゃなかったんですが、ちょいと手の込んだ仕事に乗っかったと云いますか、偶然うまい具合に事が進みまして大金が入ったと云う仕事で、まぁ当時は新聞にも載ったんで知っている人も多い事件なんですがね」と軽快にはなしだしまして
 「たまたま、金になりそうな話を小耳に挟んだんです。もちろん、そんなことは表に出る事はありません。そう云う話は世の中の裏側で語られるものですからーーそれを耳にしたのは、塀の向こう側でした。
 塀の向こう側−−そうです、刑務所に入っていましてね。そのときに耳にしたんです。いやぁ、本職以外でドジを踏みましてね、ちょっと別稼業をしていたんですが、その仕事の相棒に逃げられてハメられた、ということがありまして、まぁ、何年かクサい飯を食べてた事があるんです。そんなこともありまして、悪い事は一人でやるもんだなと思っていますが、まぁ、置いておきまして。
 間もなくアタシの刑期が終わる一年前頃にですね、当時、刑務所の中で有名大学の入試の問題用紙が印刷されていたんですが、そうです、あの事件です。
 問題用紙が、入試前に漏洩して、それに関わったと思われる人が不自然な最期を遂げたと云う、その事件です。
 アタシは別にそれに関わっていたわけではないんですが、たまたま耳にしましてね。まぁ、刑務所の外にも情報網を持っていたんですが、どうもそういうことをしている人たちがこの刑務所にいると。
 アタシは周囲の動きに気を配りながらそうした動きを探っていったんです。そしてようやくその連中を突き止めたんです。
 しかし、それには決して加わることなく、彼らの動きについて情報を集めたんです。誰が、どうやって外部に渡しているのか、渡す手段は何なのか、と云った事を。今年うまくいけば、たぶん翌年も同じような段取りで行われるだろうと踏んで、その首尾をできるだけ細かく観察して情報を集めたんです。
 するとですね、意外にも単純なダンドリなんですよ。外部の者と連絡を取って決まった日時に塀の外の辺りに受け取りの人が待機していて−−ムショは自由時間が限られていますから、自由な時間−−休憩時間にですね、塀の外からサッカーボールが放り込まれて、そのボールの中に問題用紙を挟んで、塀の外へ返してやる、向こう側でボールを拾うというダンドリなんです。
 実際にアタシ、この目で確認したんです。ええ、この時間に誰がどう動いているかというのも、この目で。それを見て、アタシ、これならいけると思いましてね。
 それから一年後、刑期が終えていたアタシは、その刑務所の塀の外で、この辺りに受け取るヤツらは来るだろうと踏んで待機したんです。詳しい日時は判りませんが、去年の塩梅だとだいたいこれくらいの頃だろうと予測をたてまして。
 そうしますと、受取り手らしき男が現れたんです。見るからに、ああ、と思うようなヤツでした。ボールを介してのやり取りというのは前の年は三回行われるんですが、最初は様子見でしっかりとどういう人が取りにくるのかと思って見ていたんですが、やはりそいつが受け取ったんです。こちらは塀の中の様子を実際に知っていますから、この時間に中ではこんなことが行われていて、そろそろ動き出すぞ、なんて思いながら見てますと、案の定、行われたんです。
 塀の上を、ぽーんとサッカーボールが越えて、ぽーんと返ってきて、近くにいたその男がそれを取りまして、ボールごと持って走って行ったんです。
 どれくらい先ですかね、近くに仲間がいたと思うんですが、ボールを拾った男がしばらく駆けて行きまして、200メートルほど先の角を曲がったんです。
 アタシね、それを見て笑いが出ましたよ。それだけの距離を一人の男しかいないのであれば、大丈夫だと。二回目を狙う事にしました。三回目はどうなるかわかりませんから、やるなら二回目だと前から決めていたんですが。
 二回目は、それから三日後でした。少し早い目の時間にそこを通りますと、やはり前回見たような男が立っているんです。安っぽい背広の、パンチパーマの男が。
 アタシは、それを確認しますと、男の逃走経路の辺りに待機しましてね。ちょうど公衆電話がありまして、そこで電話を掛けているような具合でですね、男の様子を横目で観察していたんです。
 で、時間になる。
 と、サッカーボールがぽーんとまた塀の上を越えまして、道路に転がる。パンチの男が拾う、こちらへ駆けてくる。
 と云う時にですね、アタシ、ボールを持って駆けてくる男に、公衆電話から前方を確認せずに出ましたと云う寸法でぶつかったんです。
 男はもちろん勢いがついていますから、どっかーん、どってーんとなりますよね。ボールは転々とする。
 アタシは、「いや、これはすいません」と云ってボールを拾い、渡す。
 その時−−ボールに切れ込みがしてあって、そこに例のモノが挟まっていたんですが−−それをササッと換えまして、パンチ野郎に渡したんです。一応前年の問題用紙を挟みましてね。パッと見ても判りませんからね、書かれている問題なんてのは。
 どのボールを拾った時に気付いたんですが、サッカーボールは二重になってまして、表面にサッカーボールの生地を被せたものでした。
 男は急いでますし、そんな事をされるだろうとは思ってもいませんから−−寧ろ、悪い事をしていると云う負い目もあり、顔を見られたくもなかったのでしょう、ボールを手にするなりサッと走って路地裏に消えていったんです。アタシの顔も確認せずに。
 ご存知のように、この事件ではその後関係者が死んでいますが、この時の男も死んだんではないでしょうか。そう思うと気の毒ですが。
 さてと、問題用紙です。これは持っているだけでは何の得にもなりませんから。別にアタシが最高学府の受験するわけでもありませんので、売って換金したい。で、この問題用紙を誰に売りつけようかと考えたんですが、ルートが限られておりまして、既存のルートでは意味がない。寧ろ、大元を強請った方が金に成ると踏んだんです。
 大元? 刑務所ですよ。
 刑務所の所長に、買い取りを要求したんです。それまでも予備校と癒着しているとか、情報を流しているなどと疑われていましたが−−予備校が近年の問題の傾向を分析した結果だろう、と言い張っていましたが−−全体としてはまだ謎のままだったんですね。それで、マスコミに送りつけて、大っぴらにしてやるぞと。
 出世が命の公務員ですから、是非買い取らせて下さい、と向こうから頭を下げてきましてね。妥当な金額で譲ってやりましたよ。もちろん、その後マスコミにも渡しましたがね。たまたま拾ったスクープですよと。こちらもそれなりの金額で。
 アタシの存在を知っている人はいないんですから、結局元々やっていた方たちの何人かが目をつけられたり、本体に捜査が及ぶのを警戒して、口封じに消されたりしたんでしょうが、アタシには何も問題はなかったですがね。
 お金の受け取りですか?
 簡単ですよ、本職がスリなんですから、その辺りはダンドリよいんです。第三者にお金を受け取ってもらい、そいつから奪いました」不景気な世の中ですから、何にも考えずにお金で動いてくれる人もいましたからね。
 結局はアタシの存在は表に出る事はなかったのです」
 御仁はそう話すと機嫌がかなり良かったのだろう、クイッとスコッチウイスキーを飲み干した。
 「とても素晴らしい話ですね」
 ワタクシはこの御仁の話に感心しまして、空いたグラスにどぼどぼとスコッチウイスキーを足しまして、敬意を表しました。ワルではありますが、何と云いましょうか、心地よいワルなハナシ。漢が羨ましがるような話ですからね。
 御仁もまんざらでもないようで、何度も頷きながら気持ち良さそうにグラスを傾けます。
 「ヨイチさんは簡単そうに話をされていますが、これは、まぁ、組織を相手にしているわけですから、ちょっとドジを踏んだだけで、もう、終わりですからね」
 ワタクシが、その武勇を讃えますと、御仁の表情は、文字通り喜色満面。
 「そうです、そうです」と、「実際には、掌には汗がびっしょりでしたよ。素早くボールから問題用紙を引き抜いて、取り替える辺りはとくに。時間にして、数秒とないんですから」
 最前ワタクシを牽制した鋭い目は、丸みを帯びまして、若干目尻は垂れております。
 それで「良い話をありがとうございます」なんて返しますと、
 「もうひとつありますから、たぶんこっちの方がアタシの仕事の中で最も、面白い話です」御仁はそう云って、背筋を反らしまして、エヘンと咳払いをひとつ。
 「これは先ほどの、刑務所に入る前の話です。
 アタシがまだ、三十路半ばほどの話です。
 アタシ、当時、まぁ、このウデを自慢していたわけではないんですが、そう云った稼業の人たちから『疾風のヨイチ』とか『江戸前』なんて云われてましてね。江戸っ子ってのは宵越しには金が無くなっていますからね、ヨイチと擦れ違うと金が無くなっている、だから『ヨイ越しに金はナシ』なんてのと掛けて、うまい事言いやがるなって思いましたが。
 終いには『神様』なんて噂する輩まで出てきまして。その世界では一目も二目も置かれていましたね。
 その頃の、スリの世界ってのは、シマが決まってましてね。結構面倒なんですが、その世界にも仁義って云いますか、現代で云う、そうそうヒエラルキーですね。その、ヒエラルキーの頂点にいる人間が、まぁ、采配するんですが。自分は仕事をしないんですが、金は入ってくるって仕組みを作ってまして、まず身内が仕事をしやすいように、良い場所を押さえてって、その次にその取り巻き、で三下どもがその次にってな具合で、良いシマをどんどん取っていっちまう。だから、縁のない若手なんてのは行ける場所が限られてるんです。
 アタシは、そう云ったグループに所属せずに一匹でやってましたから敵が多ございましてね。入るのにはお金が要る上に、上納金もいる。他にもアホみたいな制度がたくさんありましてね。そんなアホみたいな組織が何の役に立つのかって思って、意地を張るようにしてやっていましたから、何度も目をつけられて、面倒な事も多かったんです。
 しかし、どんな世界にも神様はいるもんで、ある祭りの夜にですね、そのグループのヤツらが警察に捕まったんです。
 結構捕まりましたね、ええ。最初に駆出しのヤツがとっつかまりまして、そいつが口を割ったんでしょうね、幹部連中がごっそりつかまりまして。別にアタシがタレ込んだんではないんですが、願ったり叶ったりですよ。神様はよく見ている。そんなふうにして、思わぬところから良い方に転んで行ったんです。棚から牡丹餅ですね、まさに。
 で、この機会にうまいことやってしまおうと思いまして、そいつらのシマに割り込んだんです。向こうは勢いがありませんから、わっと入ってやりましたよ。締まりのない虎穴に、グワンと突っ込んでね。へへへ。
 アタシが目をつけましたのが、電車でございます。
 電車と云うのは、人が常に居る上に、それなりに逃げ場もございますから、とても仕事がしやすいんですよ。
 まあ、大きな駅ってのもあるんですが、さすがに毎日駅で仕事ををしてますとメンが割れますからね。存在自体が怪しまれる。終電時間の泥酔客を相手にした介抱泥棒なんてのは、毎度やっていると駅利用者に覚えられてしまう可能性もあります。
 その点、電車でしたら、毎日乗っていても、移動中だと思われますからね。通勤、帰宅で混む時間はスリに取ってはまさにうってつけの環境でございました。適度に混んでいればちょっと触れられただけではわかりませんし、多少不自然な動きであっても姿勢が崩れてしまいまして、御カンベン下さい、てな塩梅でね。
 そして、アタシね、背はさほど高くはないんですけども、腕はちょっと長いんです。子どもの頃に木の高いところにある果実や、冬なら干し柿ですね、あれを盗ったりしたんですが、頑張って腕を伸ばしていたら、思いの外、伸びたんですよ。ですので、アタシの頭の位置がちょうど財布に近い辺りにありまして、腕を伸ばせばいいという塩梅で仕事がしやすかったんです。
 あと、こちらの仕事を始める前にですね、短い間ですが、手品師の付き人をしていたことがありまして、指先の訓練を毎日しましてね」
 御仁はそう云うと、右の手をワタクシの眼前で擦りだし、何もない空間をつまんだんです。ちょうど手遊びの狐の顔のような、そんな塩梅です。
 すると、何もないはずのところからひょいと将棋の駒が出ましてね。金がひとつ、ふたつと。それを別の手でやる。すると今度は銀が二枚。
 驚くワタクシを笑いながら御仁は云うんです。
 「ですから、先ほどの将棋も、タネも、仕掛けも、あったんです」と。そして、また、話を始めましてね。
 「手品師の師匠はオンナ遊びが好きでしてね、まあ芸人ですから何事も仕事に結びついたら良かったんですが、彼に限ってはオンナ遊びは大して身に成りませんでした。仕事で稼いだお金が蝶々のようにひらひらと飛んでいく。遊びほうけて練習も疎かになれば、仕事でたびたび失敗する、なんてことで次第にどうにもならなくなっていきまして。
 結局、その方は何人かいた愛人のうちの最も別嬪と逃げましてね。どこへ行ったのか判りませんが、何の連絡も取れずで、アタシも往生しました。
 アタシは基本をいくつか教えてもらっただけで、人前で披露してお金を取れる技なんかありませんから、別な仕事を探しましてね。いろいろやりましたが、どうも何かが合わなくて長続きしない。
 で、たまたま、酔っ払った若いヤツが臀のポケットから財布がはみ出しているのを見まして、これはイケるんじゃないのかと、サッと抜いたのがこの稼業の始まりです。
 いろいろ研究しましたが、人間と云うのは案外無神経なもので、外に気をとられていれば、何かが触れても気付かないものです。とくに目が情報を拾っている時、耳が外界の音に反応している時なんか。
 先ほどの将棋はですね、あなたが次の一手を思案しながら、狙っている升目に目を落としているスキにチョチョっとやったんです。
 まあ、話を戻しますが、アタシはそんなわけで電車の中で仕事をすることにしたんですが、一応シマがありまして、国鉄S線のK駅からO駅までの20分ほどの区間がアタシの仕事場でした。だいたい乗る前から目星は付けておくもんですが、途中で対象を変更する事もありました。手持ちの荷物が多いものほど注意はあちこちに向かいますから、荷物を多く持っている輩、宴会なんかの帰りで機嫌のいい方たち、指を絡め合ってうっとりしているアベックなんかがカモでした。いろいろな方からいただきましたが、アタシは金のなさそうな人、とくにご老人にはいたしませんでした。苦労をしてきた方のお金は重みが違いますからね。ですから、逆に見るからにお金を持ってそうな、お金の臭いがプンプンする方からはタンマリいただきましたよ。また、そう云う輩ほど不用心と云いますか、大事に思っていないんでしょうね、スキが多いんです。財布でなくても、金に成りそうなものはいろいろいただきましたよ。まだ皆がモノを欲している時代でしたからね。とくにカメラや時計なんかが金にしやすいものでしたけれでも。
 で、まあそんな塩梅に自分で規則を決めまして、仕事をしていたんですが、最もこだわったのは深追いをしないということでした。あんまり執拗に追いかけますと、大概ロクな目に遭いませんから、15分でダメだったら諦めることにしたんです。
 今ではもう、そんな稼業を止めてますが、長い事やってましたね。20年はしてましたでしょうか。その間、一度もアタシは捕まった事がなかったんです。運もよかったんでしょうね。オマワリに追われた事もありましたが、偶然にも大きな事件の指名手配犯が駅にいて、そっちを追いかけて行ったとかですね、逃げた先で警官と学生デモ隊がぶつかっていて、その混乱にまぎれて、なんてこともありました。
 捕まった事がないッてんで終いには『神様』なんて云われましてね。自分でも知らないうちにオヒレハヒレがついて話が広がりまして。
 そうしましたら、そんな噂を聞いた同業者から話が持ち込まれたんです。
 『神様、ひとつ仕事をやってくれないか』てね。
 話を聞いてみると、ある金持ちそうなヤツがいて、そいつの持つ金の万年筆を奪ってくれないかと云う。
 その話を持ってきたヤツもそこそこの腕なんだけれども、どうにもスキがない。長い事ガンを付けているが、全く盗れる機会が訪れなかったと云う。胸のポケットに挿しているだけだから、そんなに難しいものでもないだろうと思うのだが、『全然スキを見せないんだ』と云う。
 ドイツ製のもので、キャップに宝石が散りばめられた、純金製の万年筆−−。その社長が自慢しているのを耳にしたと云うんです。
 それを聞きまして、アタシもその稼業では自信を持っていましたから、その話を受けたんです。
 そいつのシマは、アタシのシマから結構離れたところでして、まずはどういう街を走っているのか、どういう人が多いのか調べました。万が一、何かあった場合の逃走経路も確保しておかなければなりませんから。
 まぁ、戦後の復興期で、中小企業の多い街だったんですが、成金になったものも多くてですね、件の万年筆を持った社長と云うのも、成金でした。
 ですから、自分の成功を自慢したかったのでしょう。高そうな服や帽子、クラバッテ−−ああ、ネクタイです−−をしてましてね、成金のイヤミ臭が漂っている。見ているだけで嫌になるような輩でしたね。何もクルマにでも乗れば良いだろうに、わざわざ人が混む電車に乗るんですからね。そしてワザと貧乏人の前で『エヘン』なんて咳払いをして、席を譲るよう催促するんですよ。
 見ていて、こいつはヤキを入れてやらねば、と少々義憤に駆られましてね。
 まぁ、そんなわけで、イザ行動に出たんですが、やはりガードが堅いんですよ。ジャケット外側の胸のポケットに挿してあるだけなので、何かの拍子に、ひょいと戴けそうなんですが、向こうも値の張るものだったものだけにそこは気を緩めないと云いましょうか、気は緩めてもそこだけ守るという塩梅ですね。
 だいたい午前10時過ぎの電車でして、社長出勤なんでしょうなぁ、新聞なんか広げて、悠々としている。そして、ときおりその万年筆を取り出して、うっとりと眺めるんです。ナイトクラブで女性の脚をしげしげと見るような具合にですね。
 で、アタシ、ずっとこのオトコを見ていましたが、初日は様子見だったんですが、二日目、三日目、全然機会が訪れずダメでしたね。
 雨が降ったら荷物が増えて気が散漫になるかなとも思いましたが、四日目雨が降るも変わらず。
 電車を降りてつけようかとも思いましたが、一応、『神様』と呼ばれている手前、綺麗に、華麗な仕事をしたいと云う、まぁショウモナイ見栄もありましてね。
 強盗? それはスリ稼業の人から云えば、何とも品のない仕事でございます。
 相手が知らないうちに、事が済んでいると云うのが、この稼業の肝要にして、華なんですから。
 見栄もありますが、このオトコについてばかりではお金にならない。まぁ、アタシも生活の為に貯蓄はしていたんですが、大して金にもならないような仕事に時間をとられるのはカンベンですからね。一週間、と期限を決めていたんですが、半分は過ぎてしまった。そして、残り三日でうまくいきそうな気配もない。
 と、なっては打つ手もないのですが、何せ、アタシの腕前を見込んでのお願いですから、今更ダメだったと云うわけにもいかない。ああ、面倒なことを受けてしまったな、なんて思っていたんですが。
 ふと、思いついたんです。万年筆をすり替えたら良いんじゃないかと」
 御仁はそこまで話して疲れたのか、ほう、と一息つくと、スコッチをぐいぐいっとやりましてね。喉を潤わせて、また始めたんです。
 「同じような万年筆を作って、すっと入れ替える。
 手品ではよくある手なんですが、見ているものが別のモノにすり替わって、本物は違うところへ、と云うあれですね。それをやろうとしたんですが−−。
 実際同じような品を用意したんです。まぁ、それほど細かく実物を見たわけではないですから、一瞬間だけそれっぽく見えるようなものですね。金色の万年筆を。
 で、電車で、そのオトコと隣り合わせになるようにしまして、どのタイミングでやろうかと画策したんですが、なかなかその機会が訪れない。
 今か、今かと、緊張感の中で機会を待ったんですが、ダメでした。初めは帰りの電車で寝ているときにでも狙ったらと云う考えもなくはなかったのですが、帰りはいつもタクシーで帰るときた。一杯やってすすっとタクシーで、なんです。
 で、アタシ、これは困ったなと思いまして、悩んだんです」
 と、ここで御仁、こちらを改めて見つめて、
「さて、アタシ、結局どうしたと思いますか?」と聞いてきたんです。
 あなたなら、どうしますか?
 ワタクシは、その用意した万年筆を依頼者に渡しちまって知らぬ顔ってのを考えたんですが、御仁は横に首を振る。そして、笑ってこう言ったんです。
 「結局ですね、買ったんですよ。そのオトコから、万年筆を。
 正確には、舎弟みたいなヤツに買うように命じたんです。ナンボ云われたって良い。ただ、何としても、万年筆を売ってもらえと。
 で、ですね、いよいよ最後の日。
 アタシは、舎弟のミノって云うヤツを使いまして、オトコに向かわせたんです。ミノってヤツはちょいと精悍な顔でしてね。話すと、若干貫禄がある。
 こいつにですな、駆出しの骨董商だと云え値打ちが判るような芝居をしろ、と指示したんです。
 ミノは、オトコの万年筆を見るなり、『いやっ、これはすごい逸品。なんと、こんなものが。これはドイツ製の万年筆ではありませぬか』『世界に一本しかない万年筆ですか』『何ともスバラしい』と散々持ち上げさせまして、『できればお譲り頂きたい』と言ったんです。『後生です。実は、これから婚約者の実家に挨拶に行くのですが、生憎、急ぐあまり、大したものを持たずに来てしまいまして』『駆出しの骨董商ですが、せめて何か一つでも一流の品を身に付けていれば、先方への見栄も張れると云うもの』などと、申しまして、どうにかお金を出して譲って戴く事に成功したのです」
 御仁は再度こちらを向いて、これで終わりではありません、と云って笑った。
 「この後、オトコがミノから受け取った大金は、仕舞った財布ごとアタシがいただきました」
 御仁の顔には痛快なことをやってのけた時に浮かぶ、してっやたりの表情。当然、笑い声も大きくなります。
 ワタクシ、成る程と感心しましたよ。
 やりますなぁ、やりますなぁと賛嘆の言葉が知らずに漏れました。
 「これがアタシの生涯で思い出に残る仕事でございました」
 嬉しそうにスコッチを呑む御仁の顔がカッコ良く見えましたね。ええ。

 まぁ、お話はいかがだったでしょうか。
 ナニ、そんなに面白くもなかった? 大金が一晩のうちに消えていない? ははは、そうでございますね。ええ。
 えー、この後にオチがありまして。ではそれを。

 酒の席で愉快な話が出まして、気分は上々ですから、この後にですね景気よく、べっぴんのいるナイトクラブへ行こうと提案したんでございますが、御仁、アタシはもうそんなに若くないからオンナに興味がない、と仰る。
 そして、だったらアタシの家で呑みましょう、なんてことを仰りましてね、御仁の家で呑む事になったんでございます。
 そこそこ酔っていますからタクシーに乗りましてね。もちろんワタクシの知らない町です。そこの、どこかの道をうねうねと曲がりまして。御仁が、ここです、と云った物件は、侘しい住まいだろうと予想していたんですが、その予想に反しまして、ワタクシが住んでいるより何倍も立派なメゾンでしてね。スリ稼業は儲かるんだなと思いました。そのときは。
 中に入ると、猫足のテーブルだとか、真っ赤なビロード地の椅子だとか、貫禄のある男性のポートレイトなんかがあったりしまして。へぇー、なんて感心してますと、洋酒が出されましてね。ヘネシーウイスキーを「まずは、キでおやりなさい」と。
 ひとまず乾杯をしまして、「今日は楽しい出会いでしたね」なんて御仁が云いながら、続けて二杯三杯と杯を重ねます。
 「本当にステキな夜ですね」
 「泊まっていきなさい」
 気付くと、御仁のボディタッチが増えてきましてね。吸い付くような手つきで。
 先方はスリですから、ワタクシ、一応用心しないといけないな、とは思いましたが、最初はそんなふうには思っていなかったんです。まずは財布を用心しないと、相手は元とは云えスリですから、とそっちばかりを気にしていたんです。
 しかし、どうも狙っているのはそっちではないような気配になってきまして、手が次第に下半身へと伸びてきたんです。
 「ユイチさん、いけません。ワタクシ、そのような趣味はありませんから」と強く訴えたのですが、御仁は「大丈夫」と云うばかり。
 そして、この身体のどこにそんな力があるのかと云うような力と迫力で、顔が、手が迫ってきまして。
 ああ、これではこの清い身体が汚れてしまうと諦めが一瞬胸裡に浮かんで来たまさにそのとき−−建物が激しく揺れたんでございます。
 地震でございます。震度は4くらいだったでしょうか。ガタガタとあちこちが激しく揺れましてね。
 そんな、都合の良い、とお思いでしょうが、あったものはしょうがない。
 と云いますか、まさに地獄に仏。この瞬間を逸しては逃げられない、ワタクシそう思いまして、必死で走り出しました。
 揺れが収まった一瞬に、転げるようにして、ばっさばっさと目に入ったもの、手の届くものを掴んでは投げまして−−昔話の『三枚のお札』−−あんな感じでございます。玄関まで行きますと靴を掴んで、履かずに逃げました。
 道へ出ましたが、当然後ろからは追いかけてくる気配。夜道には、ワタクシの逃げる足音と、御仁のタンタンタンと走ってくる足音が不規則に重なって響いております。
 ああ早く、早く、早く、と大通りへ出ましてタクシーを拾おうと思うんですが、なかなか来ない。しかし、音は近づいてくる。身に迫る危険。ああ、ヤツがあそこまで、と蒼くなっていますと、神様はいたんです。クモの糸ように、そっと糸を垂らされたんでしょうね。希望の灯火のような灯りが近づいてきまして、「ああ、タクシー」と、どれほど感謝した事か。そのタクシーでどうにか逃げることができました。
 車内でひとまず落着いて、上着の内ポケットに手を入れて煙草を取り出そうとして気付いたんですが、財布がない。あれ、確かに大金を入れた財布が、と全身を確認しましたが、ない。
 やはり、元とは云えスリだったんです。しかし、あの大金の入った財布を、いつの間に盗ったのだろうと思い出してみたんですが−−あの時か、地震で意識がぱっとよそに向かったあの瞬間に。なるほど。ああ悔しい。
 後日、警察に行きましてね、この近所の家で飲んでるときにイタズラされそうになり逃げたんですが、その際に財布を奪われた、と被害届を出したんですが、ワタクシ、酔っていたためその家がどこか皆目見当がつきませんでね。果たして見つかる事もなく。無念。
 ああ、競馬で当てた大金は、かくして一夜のうちにつゆと消え、でございます。

 いかがでしたでしょうか。
 ナニ、品がない? ハハハ、当然ですよ。金にまつわる話なんて、そんなもんでございましょう。はははは。

 オソマツ。
posted by flower at 14:25| Comment(0) | TrackBack(0) | でかめろん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月03日

どうでもいい話

どうでもいい話である。

K市に住む知人・Yの話である。
Yは若い頃の田宮二郎に似たなかなかなハンサムな男だった。何かの折に彼と話していると、それを目にした女性たちから「あのオトコマエな彼、今度紹介していただけない?」と後日言われたことが度々あった。
比較的殿方にオクテな私の周りの女性たちでさえ、そんな様子であるのだから、街を歩けば声を掛けられることも少なくなかった。或るときは通り過ぎた高級そうなクルマが停まり、ウィンドウから顔を出したマダムにドライブに誘われ、また或るときなどは、傘がなく、雨に打たれながら信号待ちをしていると、不意に頭上に傘が現れ、「よければ一緒に信号を渡っていただけませんか」と妙齢の女性に声を掛けられたのだと云う。
ちなみにYは180ほどの背丈なうえに、学生時代にバスケットで鍛えたと云うスリムなラインで、甘いマスクに性的魅力に溢れた肉体という彼の存在は、女性たちを刺激して止まなかったのだろう。プレイボーイではなかったが、身持ちが堅すぎるほどでもなく、たまに訪れるアバンチュールを「あれもセッションだからね」とかつては歓迎しているようだった。

そんな彼が、家の近所を歩いていると、よく視線が合う女性がいたそうだ。
近所のスーパーでの買い物や本屋での立ち読み、或いは喫茶店でコーヒーを飲んでいるときなどに何の気なしに窓の向こう側に目を遣ると、女の潤んだ視線が−−と云った塩梅にその女性は見ている。
目が遭うとしばらくYを見つめているが、子連れであったために、子どもに促されるようにして場を去る。髪を金色に染め、一見派手だが、どこか清楚な雰囲気も持ち合わせた、色気漂う美人だった。
追いかけられている、というわけでもなかったが、何かの折々で、ふと目を遣った先に件の女性が居て、視線をこちらに向けている、という状況が頻繁にあったそうだ。

或る夏の日の午後、Y宅のベルが鳴った。
当時、Yは高くも安くもないアパートで一人暮らしをしていたのだが、部屋のドアを開けると件の女性が立っていた。普段とは違った、スーツ姿である。
女はそこがYの家だとは知らなかったようで、おおいに驚いていたそうだ。
「何かようですか」とYが訊ねる。顔は知っているが、言葉を交わすのは初めてである。緊張から口調はいささか堅い。
女は少し言い淀むようにして「国勢調査の」と言って封筒を出した。
モジモジという表現が相応しい、いじらしさが滲んだ動きで、かわいいと思った。
顔は下を向いている。差し出された封筒を受け取ろうとYが手を伸ばす−−と女性の手が、Yの手を握りしめた。
下を向いていた顔が前を向き、視線がYを捉える。
Yは困惑したが、女性の色気を感じていないわけではなかった。寧ろ、もしかしたら、ステキなことが−−と下心を持ってしまった。
Yは「たまに街で僕を見てますよね」と訊く。女性は恥ずかしげに「はい」と頷く。
「いつもは子どもがいるので、遠くから見ているばかりでしたが、いつか機会があれば声をかけたいと思っていました」頬に赤みがさしている。
尚も「いつの日か、あなたと−−」と続けて何かを言おうとする女性の唇。
と、そこでYはそれを自身の唇で塞いだ。そして、そのまましばらくの間、濃厚な口づけが、玄関と云う狭い空間で展開された。
レディとの逢瀬に慣れたYの技術もあったが、女性の情熱的な愛撫が互いの気持ちを熱くさせ、もっと先へ進まなければという雰囲気になり、女性を部屋の中に入れた。
Yに想いを寄せていたというだけあって、女性は恥じらいを見せながらも、服を一枚ずつ脱いでいき、ブラジャーを外し、可憐な花模様のショーツ姿になった。アバラが見えるほどの細身ではあるが、臀と胸は豊かだった。三十路に差し掛かった、女として熟れ始めた色香だった。
女性は言う「あなたとこうなることを、想像していました」と。
互いに最後の一枚を身に付けた姿態で濃厚な口づけを交わしながら、肉体を愛撫し合う。
既に感度が最高潮の女性は、肌を触れられるだけで息を荒げ、胸を触れば艶かしい声が漏れた。況や、敏感な部分をや、である。指が潤った突起に触れると、全身が震えた。
梅雨どきの紫陽花のように、濡れた花びらを前にしては、Yも後先を考える余裕などなかった。

その後、女性はYの家へやってくるようになったそうだ。聞けば、亭主は長距離トラックの運転手のために不在がちだった。子どもを保育園にやると、Yの家で昼のひとときを裸でふたり楽しく過ごした。
それからふた月後、女性からYに電話が入った。
「子どもができてしまったの」と。
そして「このままでは旦那にバレてしまうわ」と。
「暴走族あがりで、コワい人なの。あなただったら、殴られたらきっと死んじゃうわ。私も殴られると思うし。お願いだから−−」
−−お金を、という話になったそうだ。

Yは、向こうからやってきたとは云え、人妻に手を出した自分にも非があるのだし、何より美人の悲しむ声に情が動いてしまったのだそうだ。
それで−−それなりのお金を渡し、これで終わる、と渡しのだそうだ。
突然の損失も痛かったが、彼女の悲しみには換えられない、オトナの経験を思いがけずしてしまったな、などと思っていたところ、自宅のチャイムが鳴ったのだそうだ。
激しくドアが叩かれる。恐れながら覗き穴を覗くと、向こうにはコワモテが立っていた。
「よくも人のオンナに」と。

その場はひとまず居留守で切り抜けたが、そのうち電話も鳴るようになった。旦那から脅す電話であったり、女から折檻を受けるので止めさせるためにさらにお金を払って、と哀願するようなものであったり−−。
困ったので警察に相談してみたが、チジョウノモツレと軽くあしらわれてしまった。
Yは、結局その家から引越しをしなければならなくなった。

「向こうからやってくる幸せは、たぶん何かありますよ」
酒の席で彼はそんなことを語っていた。

そんな話を聞いた1年後、たまたま入った店で似たような話を耳にした。
「街でやたらと目が合うオンナがいて。この前、部屋のチャイムが鳴ったからドアを開けるとそのオンナが立っていたんだ。電気のメーターを見てまわってるバイト中だったんだけど。オレの顔を見ながら、手を握ってきて−−。それでいいカンジになっちゃってさ−−」

世の中には、羨ましいようで羨ましくない話が少なくない。
posted by flower at 20:22| Comment(0) | TrackBack(0) | でかめろん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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