2011年11月20日

湖畔

窓の外には月が半分だけ見えている。
鋭利な刃物で切られてしまった果実のように。半分だけ。宙空に。
そしてもう半分は、大地に浮かんでいた。
湖でもあるのだろう。月灯りで赤く染まった樹々もシンメトリィに、見える。
気付けば、私は見覚えのない空間に居た。
木造の床。漆喰の壁。高い天井からは豪奢なシャンデリアがぶら下がっている。
正面には子どもを抱いた女性の絵画が飾られている。
と、ボーン、ボーンと時計の鳴る音が聞こえた。
音のする方へ目を遣ると、古めかしい大きな時計が目に入った。
ローマ数字の記された円の上で長針と短針が時を刻んでいる。
チク、タク、チク、タク。振り子が音を立てて、左右に揺れる。
チク、タク、チク、タク−−。
不意に振り子の音に、カツカツカツと云う跫が被さり、近付いてきた。
そして、その実体は程なくして私の前に現れた。
黒い鍔広の帽子に、黒のプリーツのスカート、黒いシャツ。
短く結ばれたネクタイだけが赤かった。
「御機嫌よう」彼女はそう言って、夜だと云うのに開かれた日傘をクルクルと回した。
月の灯りが彼女を照らしている。陶製の人形のように、真白い肌。黒く長い髪。長い睫毛。唇の赤が林檎のようだった。その唇が動く。そして、唐突に物語が始まり出す。
「この世界は、秋の終わりにだけ現れる世界なのです」
「秋の終わりにだけ」彼女の言葉を私は反芻した。
そうなのです、と彼女は悲しい表情を浮かべて頷く。
「秋の終わりにだけ、現れるのです。正確には、あの湖に映る木々が色づいている間だけ−−」
彼女が指を窓の外に向けた。「あそこに人が立っているのが見えるでしょうか」そう言って、湖の辺りを指して。細く長い指だった。
「彼がこの家の主です。彼は小さな工場主の家に生まれました。幼い頃から父を手伝い、父が病気に罹り、仕事ができなくなると父のあとを継ぐようになりました。勤勉だった彼は、あれこれと工夫をし、工場をどんどん大きくしていきました。そして工場をいくつも経営し、遠くの国にまで脚を伸ばして取引をするようになり−−富を得るまでになったのです」
湖の畔に男がひとり居るのが見えた。
年齢も、表情も細かくは分からなかったが、どことなく寂しげな雰囲気が漂っていた。
「彼は富を築き、名声を得ました。しかし、彼にも悩みはありました。
心から女性を愛したことがなかったのです。若い頃は、若さゆえに恋もしましたが、未熟ゆえの結末を迎え、青年期には仕事が生活を支配し、地位が安定してくると寄ってくる女性の下心ばかりが気になり−−。
ですが、彼は心を許せる女性を欲しいと思っていたのです。何があっても愛せる女性を欲しいと。それは歳を重ねるごとに強くなっていきました。
そして、彼は神に祈ったのです。心から愛することができる女性が現れますように、何があっても愛せる女性を下さい、と。
すると、或る秋の日、ひとりの女性と出逢いました。森で見かけた鹿を追いかけているうちにこの湖まで来てしまったのだとか。女は見窄らしい装いでしたが、とても美しい顔をしていました。彼は、その女にひと目で恋に落ちました。彼は神の導きであると思ったのです。ふたりはともに暮らすように幸せな時間を過ごしましたが、長くは続きませんでした。女が原因の判らない病に罹ってしまったからです。
男は名医がいると聞けば名医を呼び、良薬があると聞けば取り寄せましたが、一向に回復の兆しは見えませんでした。
女の治らない病気に悩んだ主は、神に祈りました。しかし神はその願いを聞いてはくれませんでした。もうすでにひとつ願い事を聞いてしまっていたからです。
それで−−今度は悪魔と取引をすることにしたのです。
女の病を治して下さい、と黒いミサをしながら彼は祈りました。
すると長い耳を生やした悪魔は現れ、ではお前の命と引き換えならどうだろう、と言いました。男は悩みました。病気が治っても、自分が居なくなってしまっては、女は悲しむばかりだろうと。しかし、このままでは−−。
そこで彼は、ただひとつだけ条件をつけることにしました。
−−あの樹々が色づいている間だけ、この世界に戻して欲しい、と。女と出会ったこの季節に、ふたりで、あの樹々を眺めたい−−そう条件をつけて。
悪魔は軽く笑うと、その条件に頷きました。
それからです。この季節になるとあの湖の畔に男が現れるようになったのは。
女の病気は治り、幾年もこの時季にふたりはあの場所で幸せな時間を過ごしました。
しかし、もう、女は年老いてこの世を去ったと云うのに、男だけがあの場所に取残され−−」
チク、タク、チク、タク−−彼女の唇が停まるとともに、またしても時計の音が聞こえてきた。
湖の畔では、彼の姿を月灯りが浮かび上がらせている。
チク、タク、チク、タク、チク、タク、チク、タク。
「秋の夜には、空しきものばかりが浮かび上がってくるのです」
振り子の音の間で、消え入るように声がした。
だが、その声の方を見ても、黒い服の彼女はもう、居なかった。


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2011年04月02日

悲雨

漆黒の闇に包まれた世界だった。
月の明かりも、星の明かりもなく、ぼんやりとした陰翳だけが浮かぶ。
波の、寄せては返す音がしている。
砂浜を侵蝕し、ザワザワと引いていく音がする。
気付けばそんな空間に居た。
私はかろうじて見える眼前の世界のどよめきを眺めた。
波はザワザワザワ、ザワザワザワ、と繰り返し訪れて帰っていく。
ザワザワザワ、ザワザワザワ、ザワザワザワ、ザワザワザワザワザワザワ−−。
と、不意にあの人が現れた。
この真っ暗な世界の中を、真黒な日傘をさして。
黒いシャツに、黒のスカートで、短く結ばれたネクタイだけが赤いのだろう。
真白い肌の顔が、わずかに浮かんで見える。
「ごきげんよう」
彼女はそう言うと日傘をクルクルッと回した。
「ごきげんよう」
もう一度そう言って。微かに笑う気配がする。
そうして私の前に立ち止まるといつものように物語を語り出した。
「悲しみの雨をご存知ですか。灰色の雨を。
この世界は、灰色の悲しみに撃たれてしまった世界なのです」
私のその言葉に首を傾げた。
「この世界はかつて、豊かな文明に彩られた世界でした。
人々がそれぞれに自身を飾り立て、街も、国も、極彩色で描かれた絵画のように艶やかさを湛え、衰えると云う言葉など無縁な世界でした。
豊かさは、いっそうの豊かさを求め、更なる華やぎへと向かいます。
欲望は、そうした中で肥大化していきます。
とり止めなく肥大化し、ある一定の量に達したとき、抑制の利かぬ自我が横溢し始め、華やぎは混沌に変質します。
この世界は、そうした道程を辿りました。
そして、かつて豊かだった世界は、或る瞬間に瓦解を始めたのです。
物質的な氾濫が、欲望の肥大化が、自身の抑制の利かない状態へと達したとき、世界を支える地盤は失われ、盤上のすべてが投げ出されるのです
結果、世界は音を立てながら崩れていき、欲望の残骸ばかりになりました。
また、欲望は残骸となるなばかりか、大気中へも放出しました。
大気中に散らばった醜い欲望が、雨に混じり、大地に落ちてくるのです。
そして、その雨は大地を蝕んでいきます。
灰色に。
雨を浴びた人間の、皮膚も、肉も、骨も、それに蝕まれてしまうと、灰色に染まってしまうのです。
灰色に染められたものは、長らく沈黙の中で息をするよりほかに何もなく−−
冬の時間を過ごすことに似た、停滞の中へと追いやられてしまいます。
今、眼前のこの世界はそうした中にあるのです」
彼女はそう言うと、またしても日傘をクルクルと回した。
私は海の音を聞きながら、沈黙の中に埋没する世界を眺めた。
見えたのはぼんやりとした断片ばかりだった。
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2010年11月10日

蒼い雪

気がつけば蒼白い空間にいた。
空気は重く張りつめ、肌に圧しかかってくる。
私は近くにあった光の射込む窓から外を覗いてみた。
蒼い雪、が降っている。
しんしんと。しんしんと。
そして、それを細い三日月の灯りが照らしていて−−。
世界が蒼白らむ。
私はその光景を呆然と眺めていた。
と、コツコツコツ、コツコツコツ、と云う跫が廊下に響いた。
コツコツコツ。コツコツコツ。と。
そして、それは近付いてきて−−私の傍で止まった。
黒いプリーツのスカートに、黒のシャツ。黒く長い髪。短く結ばれたネクタイが赤い。
「こんばんは」そう口にすると、微かに笑みを浮かべた。
長い睫毛に、大きな目。陶製人形のように白い肌は、蒼白い光を受けて、さらに白い。
続けて彼女の唇が動き−−物語が始まる。
「人間の悲しみは、どこに行くかご存知でしょうか」
私は首を横に振る。
「悲しみは、日々の空気の中に溶込み、夜の空へと昇っていくのです。
それは、地に染込んだ雨の雫が天へ昇華するように、人類の意識の外で行われ−−。
この世界の、空の蒼−−となるのです。
つまりは、空の蒼は、悲しみの色なのです」
私は、その唇を眺めている。
「夜の空の色、それはかつてこれほど濃いものではありませんでした。
心地よい蒼はときに人々に、心地よいセンチメンタルを与えたものです。
蒼い海や湖がそうであるように、蒼い宙空に冷たい月が光る夜などは、疲れた人々の心を癒す装置でもあったのですが−−
それが、いつからか堆積するばかりの砂時計のように、悲しみは溜まるばかりで−−
今では、このように、結晶となって降るまでになってしまって−−
とくに人類が虚栄心に身を包み、自尊心を違えてしまってからと云うもの−−
止むこともなく」
唇の動きが止まり、そして−−息が漏れた。
「今や、この世界は悲しみにまみれるばかり、なのです」
彼女の唇から、再び、蒼白い息が漏れた。
私は再び窓の外に目を向ける。と、相変わらずしんしんと雪が降っていて−−
眺めているうちに、心のなかに冷気が染込んできた。
「世界を覆う蒼い雪は、人々の心を寒々とした光景のなかに追いやることでしょう。
そして悲しみのなかで蒼い花が咲き、蒼い果実が成り、蒼い世界はさらに蒼く彩られてしまうのです」
「希望の光が射すことはないのでしょうか」
私はようやく言葉を口にした。
「希望の光すらこの世界では屈折してしまうのです。残念なことに」
彼女の首が横に振られた。
「この世界を留めることは、もはや−−」
そう云って、彼女が窓を開けると、蒼白い雪が不意に風にのって舞込んできて−−
眼前の世界を蒼く染めてしまった。
気がつけば彼女の姿はなく、私のなかに不安定な彼女の記憶が残っていただけだった。

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2010年10月13日

ザワザワザワザワ。ザワザワザワザワ。ザワザワザワザワ。
潮騒の音が聞こえる。
中空に浮かぶ大きく円い月が、その白い光で世界を照らしている。
砂浜に残された私の足跡が白い光に染められている。
それを侵蝕するかのように、波が寄せては返し−−。
いずれキャンパスは書き換えられてしまうのだろう。
その透明の溶剤で。
私は再びキャンパスの上を歩き出した。
どこへと云う宛てもなく。
足跡を点々と、描きながら−−。
と、不意に私の向う先に人が居るのが見えた。
目を凝らすと、夜だと云うのに日傘をさした、彼女だった。
ゆっくりと、優雅に、彼女−−メヌエさんはこちらへ近付いてくる。
そして、私の前までくると「御機嫌よう」と唇を動かした。
月の光を浴びて、肌は陶製の人形のように白い。
面長の顔に、黒く長い髪。長い睫毛。小さな赤い唇。
プリーツの黒いスカートが、海からの風になびいている。
と、「あの、海の向こうに−−」と彼女は指をさした。細く長い指だった。
「壁があるのを、ご存知でしょうか。断崖のような、壁があの向こうにあるのですが」
私は目を凝らしたのだが見ることはできない。
「この世界を取り囲むようにして」彼女を見ると悲しげな表情を浮かべている。
「かつて壁などなかったのですが。人類の未知なるものへの野心が高まるにつれ、混沌は形となり、次第に壁へと変質していったのです」と、彼女の赤い唇は動く。
「世界の限界−−そう云えるかも知れません。壁は、年々明瞭になり、世界を狭くし−−。人類の可能性が広がるほどに、壁は巨大なものへとなっていっているのです」
彼女の口からため息が漏れる。
「本来世界は自由なものでした。
世界は自由に解釈され、ある時は神として、ある時は悪魔として、ある時は精霊として人類の前に存在していたのです。
ですが、科学を過信しだしてからと云うもの、世界は分断され、人類は自らを檻の中に追いやってしまったのです。
世界を解釈するのではなく、規定する−−分断された世界では、人類は自らが存在する理由を考えることを止め、考えることでしか生まれない存在の自由を放棄したのです」
彼女の日傘が回る。
「今や世界は断絶され、人類は細かく区切られた箱の中に追いやられています。
可能性を追究するほどに、自らを追いやり−−、ときに悲しき末路へと、進むのです」
日傘が止まり−−クルクルと、再び回りだす。
「今では世界に散見するメタファーを読み解くことができるものはわずかです。
皆、規定されたものを信じ、崇め、普及するばかりで−−。
世界の意志と、向き合うことなどなくなってしまったのです」悲しいことに
「そして、もはや世界を渡り歩ける人間と云うのも、限られた存在で−−。
世界と肉薄することのなくなった今の人々と云うのは、もはやこの世界にいること自体が−−悲しき独り遊び、なのかも知れません」
そう云うと、悲しげなため息を吐いた。
そして、彼女は一冊の大きな本をどこからか取り出して開くと、その中へと帰っていったのだった。
あとに残れされた彼女の足跡を月が白く染め、波がまっさらに消していった。

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2010年10月06日

肖像画

歪んだ硝子窓の外に見える月は鎌の様に細く鋭い。
その所為か、いっそう冷ややかに見える。
たぶん、そればかりでなく、どこからか秋の風が忍び込んでいるのだろう。
気付けば、私は古い部屋の中に居た。大正期の建物、だろうか。
赤と白の市松模様の床。
葡萄と小禽が彫られた欄間。漆黒の柱。
高い天井からは豪勢なシャンデリアがつり下げられている。
アールヌーボーの彫刻が施された家具の数々。そして−−。
壁を覆う様に飾られた、圧倒的な数の、肖像画。
どれも別人のものばかりである。
ポルトガル、スペイン、イギリス、フランスと云った西洋人のものから、地中海沿岸、アラブ諸国、ロシア、中国、南方のものまでが、壁に掛けられている。
鼻の高い貴婦人、髪を巻いた貴族、南方の土人、アラブの商人、顔の強張った色白の兵士、瓜実の顔で艶やかに見つめる華人、クラウン、カイザル髭の男爵−−そうした様々な人物画が、すべてこちらを見つめている。
と、不意にコツコツコツ、と云う足音が聞こえてきた。
コツコツコツ、コツコツコツ、と。
音の方へ目を遣る、と、黒く長い髪に黒く短いスカート、黒いシャツで赤く短いネクタイを結んだ彼女が微笑んだ。
「御機嫌よう」と。
月の光よりも冴え冴えとした真白い肌だった。
「ある所に、“成功”した者がおりました」
今夜も唐突に、物語が始まりだす。
「迷信が世の中を闊歩する時代において怜悧な彼は画期的な新薬を作り、一財産を築いたのです。この建物は、彼の築いた富のひとつですが−−。
自分と向き合う空間でもありました。
富と名声を手に入れた彼ですが、心が充たされることはありませんでした。
何ひとつ不自由しないのですが、魂が解放されることもありませんでした。
成功を求め、前に進んできたのですが、到達すると虚しさに襲われたのです。
それでも抗うように欲しいものを様々に求めたのですが、揃うほどに虚しく−−。
物質的な幸せは、ときに魂を削るのです。
そこで次に彼が求めたのは、他人の人生でした。
喜びや感動を買おうとしたのです。幸せの“かたち”を求めて。お金で。
他人の幸せな話を蒐集し、存在の描かれた肖像画を集め−−。
なりきろうとしたのです。
しかしながら、誰とて他人になることなどできません。
他人に憧れるほどに、ますます自分が不幸に思われてきたのです。
クラウンの人生まで手に入れたのですが、彼の人生こそが、皮肉にも。
そんな、或る日、彼は気付いたのです。
幸せは自己の物語の中にしか存在しないのだと。そしてそれは、夢の中にあるのだと。
そこで彼は−−
夢の中に埋没するよりなくなってしまったのです。
あらゆる薬を試し、行き着いたのはカリブの島で見つけられたものでした。
それを用いれば、生きながらにして、永遠に夢の中で生き続けられるのです。
永遠に、夢の中で−−。
もちろん、今でも彼は夢の中に埋没しております。
その大きな時計の向こう側に」
そう云うと、彼女は悲しげな表情を浮かべた。
「幸せは望むほどに遠ざかる、妖かし、でございます。くれぐれも泥濘にはまらぬようご注意下さい」
と、不意に時計の鐘がなり、シャンデリアの灯りが消え−−静寂が訪れた。
暗い空間に、細く削られた月からの光が届く。
私は彼女に何か云おうとし、彼女の方を見たのだが、既にそこには何もなく。
失われながらも光を放つ月は今宵も冷たく下界を見つめている。
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2010年07月24日

世界の色

風が凪いだ。
夏の暑さが群青の空に浮かぶ月をも歪ませている。
痙攣したように街灯は瞬き、電柱に貼付いた蛾が点滅する灯りのなかに浮かび上がる。
呪われた肖像画の眼球のような、陰鬱な楕円がこちらを見つめている。
気付けば私はそんな世界に居た。
夢の中、なのだろう。またしても。
そして今夜もいつものようにさらりと始まり、すぅっと終わるのだ。流れ星のように。
と、コツコツコツ、と云う跫が聞こえてきた。
コツコツコツ、コツコツコツと薄暗い世界に通過する時が刻まれていく。
そして、やはりあの声がした。この夜の意味を告げる、あの声が。「ご機嫌よう」と。
そちらへ目を遣ると夜だと云うのに真黒い日傘をさしてメヌエさんが立っていた。
クルクルクルと日傘が回る。
黒く長い髪に、黒い鍔広の帽子、真黒いシャツ。スカートも真黒で、短く結ばれたネクタイだけが赤い。
「ご機嫌よう」もう一度そう口にすると、微笑んだ。
陶器のような白い肌に、唇の赤さが浮かぶ
「世界の色は、褪せるばかりなのです」赤い唇が動く。
そして「この夜の色もかつてのような色ではありません」と。
私はその唇が発した言葉を反芻するように、夜の世界を見回した。
点滅する街灯は束の間、周囲を浮かび上がらせ、次の瞬間には闇の中に追いやる。
「欲望が、世界の色を奪っているのです。
かつてそれは世界に熱を与えるものでした。太古の、自然に支配された空間から、自然に屈することのない現代の豊かな時間への移行は、欲望により成し遂げられたひとつひとつの結果が堆積して成立しているのです。
ですが、いつしかそれは、人類自身を暗黒へ追いやるものに変貌してしまいました。
かつては螢のような小さな灯火だった欲望も、人類史が前進するうちに膨らみ、今では太陽の如き圧倒的なものになっています。
そして、欲望が傲慢に存在を主張するほどに、世界の色を平坦なものにしていっているのです。
鮮やかだった月の色も、その欲望に蝕まれ、今では」
そう云うと彼女は月を見上げた。
天井に燦然と輝く月が、わずかに赤味を帯びている。
「欲望の赤に染められつつあります」彼女の口許から微かに息の漏れる音がした。
「人間の感性は、世界の色により動かされてきました。空の青、夕暮れ時のオレンジ、花々と草木の配色。虹の持つ鮮やかなグラデーション。そうしたひとつひとつが、人間の感性を刺激し、思考する力を引揚げてきました。しかし、残念ながら現在では、内面にハレーションを起こすようなものばかりになってしまって」
空気が淀む。
「人類史の悲しき運命なのでしょう」
再びため息が漏れる。
私はもう一度赤味を帯びた月を見上げたのだが、夏の夜は世界をモノクロォムに塗り込めようとするかのように、真黒い雲を浮かべようとしていた。
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2010年04月27日

夢の胞子

漆黒の空に星が煌めいている。
新月なのか月を見つけることはできない。
風はなく、辺りの樹々は深海のように静閑な闇を創っている。
私は、気付けば、またしても、そんな場所に居た。
何処、なのだろう。疑問と不安が胸で渦を巻く。
と、闇の中に跫が響いた。
コツコツコツ、コツコツコツ、と。
そして、黒い闇を裂いたかのように、真白い顔が現れた。
面長の涼しげな輪郭、切れ長の眼、綺麗な鼻梁。
「御機嫌よう」紅い唇が微笑んでいる。
私は闇の中に浮かぶ、そのシルエットを構成する因子を見つめた。
黒いシャツに、黒いスカート。鍔の広い黒い帽子、そこからこぼれた黒く長い髪。
夜だと云うのに開かれた黒い日傘。
短く結ばれたネクタイだけが紅い。日傘がクルクルクルと回された。
「夢の胞子、をご存知でしょうか」
「夢の胞子――ですか」
ええ、と彼女は頷く。
「眠りについた人類に、甘美な夢をもたらすものです」
そう云うと彼女は、暗闇に覆われた木々の中を歩き始めた。
「ここにある樹々は、かつて良質の甘美な夢を人類にもたらしてきたものです」
風が一瞬吹いた。私の体内にまで闇が浸透してくる。
「甘美な夢は本来、人々の内面を潤し、創造力を喚起してきました。ですが、いつしか不穏な闇がこの樹々を覆うようになると、悪い夢が混じるようになったのです」
と、何処かで鈴の音が鳴った。そして――小さく猫の啼く声がした。
彼女の足下の辺りか。そう思い、そちらへ目を遣ると、ふたつの目がぎらりと私を捉えている。この猫も真黒なのだろう。
「いつしか悪い夢は、人々の間に蔓延し、悪い夢を恐れた人々は眠りを遠ざけるようになりました」そして、その結果――
「内面に砂漠のような、空疎な地帯が生まれたのです」
風が再び吹く。頬に何かが当たった。枝、だろうか。
どれほど歩いたのだろう、時間までもが闇に呑込まれる。
「闇は全てを呑込んでしまいますから。お気をつけ下さい」
私の内面を読んだように、彼女の居る辺りから言葉が漏れてきた。
暫くすると、闇の中に突如として煌めくものが見えてきた。
巨大な樹の、枝先が――、黄金色に輝いている。
夜空の星々が枝に貼付いたように。
「これが甘美な夢を与える胞子なのです」そう云うと樹に歩み寄り、その肌を撫でた。
そして、彼女の黒い瞳が、私の目を見つめる。
「世界の分離された現在では、もう人々にこの胞子が届くことはありません」
金色の灯りの中で日傘がクルクルと回る。
「これは最後の樹です。闇の中で行き場もなく、悲しげに光を放つばかりですが」
クルクルクル、クルクルクル、と。
「人類は、自らの手により乾いたものばかりを生み出しています」
「乾き過ぎた大地には皹ができ、大きな歪みが生じるように、人類もまた」
そう云うと彼女は目映く光る樹を見上げ、悲しげに微笑んだ。
風が三たび吹いて、放たれた金色の胞子が、闇に消えていった。
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2010年02月05日

剥製

窓の外には月が見えた。
濃紺の空に、半分よりもわずかに膨らんで浮かんでいる。
高く伸びた蝋梅の枝には雪の花が咲いている。白銀の輝きを放って。
冬の夜にのみ見ることの叶う絵画。
ふと、私は自分の居るこの部屋にもう一人の存在を感じた。
目をそちらへ向ける。
と、黒い服を纏った女性が月の蒼い光に照らされて窓の外を眺めている。
黒く長い髪に、黒いジャケット。夜だと云うのに鍔の広い黒い帽子。
胸元に短く結ばれたネクタイだけが赤い。
長い睫毛に、切れ長の目。滑らかな鼻梁。陶製の人形のように白い肌。
「御機嫌よう」
彼女を見つめる私に凛とした声が向けられた。首を少しだけ傾げて。微笑を浮かべて。
そして―。
「この部屋は」と小さな花のような紅い唇が訥々と言葉を紡ぎ始めた。
「或る博士の書斎でございました。これが―」と触れた辺りがわずかに明るくなる。
机、書架、レコード、積上げられた様々な本。それと―
―剥製。鹿や狼、豹。艶やかな毛色の鳥。動物たちが大小入り混じって置かれている。
「彼の遺品でございます」
彼女はそのひとつひとつに触れていく。歩を進めるたびにコツコツと云う音が反響した。
「彼は剥製の蒐集家でございました。鳥や獣、中には魚類なども存在します。現在では目にすることのできない貴重な動物も。
物理学者として歴史的な理論を残した彼でしたが、晩年は、命あるものを愛せないほど、剥製の蒐集と研究に人生を費やしていました。
きっかけは愛妻の死でした。
美しき伴侶を失った彼はその存在を留めておきたいと思ったのです。
ですが、それを留める術を彼はまだ知りませんでした。そして、そのときの感情が―
後年の剥製作家とも云うべき彼へと導いたのです。
上質な剥製を求めては、その細部までを研究し、技術を追求めました。
また、伴侶への愛情は、彼女の生き写しとも云うべき、幼き娘へと向いました。
後にこの娘が死んだならば、生きている状態に留めるべく研究に埋没したのです。
そして、その研究は進み、数年後到達したのでございます」
彼女の跫が部屋の奥へと進んでいく。
コツコツ、コツコツ、と。そして部屋の奥の灯りが点き―
麗しき少女の、人形のようなものが、浮かんだ。
「彼の歪んだ愛情は、娘の死を今かと今かと望むようになったのです。
幼きうちに、汚れを知らぬうちに、と。
そして、とうとう自らの手により、その娘に毒を仕掛け―
殺したのです。
まだ、十代の半ばでございました」
少女の肌には生者のように張りがあり、頬にはうっすらと紅味さえ宿っている。
黒い髪も、膨らんだ唇も、形の良い指の先も。今でも呼吸をしていそうなほどに。
「剥製、なのですか」私が問うと、彼女は、剥製なのです、と頷いた。
「何かに執着した愛情は、常に歪な結果ばかりを残すものです」
彼女はそう語ると悲しげな表情を浮かべて、カーテンの影へと身を潜めた。
一瞬窓の外で雪が滑り落ちる音がして、静寂が一層の静けさの中へ塗り込められた。
「狂気は、世界が乾いている、こんな時代にほど発生しやすいものです。
くれぐれも―」ご注意下さい、そう云うと彼女の気配は消えたのだった。
濃紺の空に浮かぶ月が、私にはどこか虚しき穴のように思えてきて。
白いため息がこぼれた。
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2009年03月21日

春の跫

月が燦々と輝いている。
天蓋に開けられた歪な穴から光の粒子が放たれ、夜の世界はラビスラズリの蒼を帯びる。
私は疎水沿いの道を歩いていた。
満開に咲いた桜の真白いシルエットが蒼い空間に浮かび、辺りには、幽かに甘く酸い匂いが漂っている。
と、コツコツコツと云う跫が聞こえてきた。
石畳の道を歩く、可憐でありながら不思議な威厳に満ちた音である。
そして、それは私の方へと近付いてきて、止まった。
「御機嫌よう」
静謐な空間で、私に向けられた凛とした声。
見れば陶製の人形のような白い顔がこちらを見ている。
夜だと云うのに真黒い日傘を回して。
黒く長い髪に、暗闇を纏ったような、黒い帽子、黒いシャツ、そして黒いスカート。
ただ、短く締められたネクタイだけが赤い。
私が「こんばんは」と答えると、彼女は微笑んだ。
そして、にゃぁ、と彼女の足下で猫が啼く声がした。
目をやると真黒い躯が佇んでいる。首に巻かれたリボンが、血のように赤い。
私は「お散歩ですか」と尋ねる。
すると彼女は「春の跫を採取しているのです」と答える。
春の跫、ですか。
私の問いに彼女は頷く。「近年氾濫する、春の跫を」と云って。
「摂理から乖離する人々の意識は、世界の歯車のズレを招いてしまいました。それは、この季節の移ろいにも現れています。本来なら、まだそれほど見ることのできないはずのものなのに、このように風景を染め上げてしまって」
彼女はため息を吐く。
「眠ることを忘れた街。影を失った存在。それらは、世界の秩序からはみ出した人々の増殖により肥大化されてきました。元々は少数派の人々の戯れだったのでしょうが、いつしかそれは、巨大な意志として人々の意識を徐々に蝕んでいき、世界の持つ暦をも侵蝕してしまったのです。
そして、それにより、世界の秩序に従っていたはずの春の跫まで、氾濫するようになったのです」
私は桜の枝に手を伸ばし、一輪、千切ってみた。
緑色の茎と淡いピンクの花びらが掌に横たわる。
世界の歯車は、狂うばかりです、そう云って再び吐いた彼女のため息までも、蒼く見える。
「蝕まれた秩序を、再び本来のものへ直さなければ、世界はますます、色褪せたものへとなっていくでしょう。太陽に灼かれた写真のように、陰翳の薄い、平坦な景色へと」
彼女はそう語ると悲しげに空を見上げた。
「この夜の世界も、本来ならまだ冷たいものであったはずなのですが、春の跫の氾濫によりこのように。
ズレてしまった歯車は、遠くない将来に、この世界を崩壊へと導くことでしょう。ですから、私は、先行する春の跫を再び、本来の位置へ戻すべく」
採取しているのです。
憐れむような眼をする彼女から私は眼を離すと、もう一度、桜の香りに満ちた空間を見渡した。
と、風がにわかに吹いてきて木々を揺らす。花びらが舞う。私は眼を閉じた。
「自覚を持たぬままに季節を見ることは、書割りめいた風景を眺めることではないでしょうか」
束の間、風が私の眼を瞑らせ、次に開けると、眼前の風景は蕾みを膨らませた木々の、わずかに寒々としたものへと戻っていた。
「春の胎動こそ、今、世界の望む秩序」なのです。
彼女はそう云うと、クルクルッと日傘を回して夜の中に消えて行った。
私の掌には桜が一輪残っていたのだが、再び吹いてきた風がそれをさらっていった。
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2009年02月14日

神の足跡

気づけば、古いタンゴが鳴っていた。
外ではザァザァと云う古い映画のフィルムのような雨が降っているようで、その音に混じってクラシカルな旋律が奏でられ、そして、嗄れた男性の声が艶やかに響いている。
僕は、たぶん古い建物の廊下にいて、呆然と佇んでいるだけなのだが。
廊下の先の方には、うっすらと灯りが揺らめいているのが見えている。
そして、そこからその音もこぼれているのだろう。
あの人の言葉に拠れば、おそらく、「世界は今日もゆっくりと歪んでい」て、僕はその歪みの中にいるのだ。
僕は、ゆっくりと歩を進めた。
闇の中に跫が刻まれていく。コツッ、コツッ、コツッ、と。
進むほどに、半分ほど開いたドアからこぼれる音が大きくなる。
と、不意にバンドネオンの音が止んで、女性の声がした。
「ごきげんよう」と。
そして、「お久しぶりでございます。貴方をお待ちしておりました」と、懐かしい声が語りかけてきたのである。
僕は開きかけたドアの中へ、恐る恐る忍び込むように入ったのだが。
妖しい蝋燭の灯りの中に居たのは、やはりあの人で。
黒のスカートに、黒いシャツ、黒く長い髪で。
そして、手にしたワイングラスの中身までもがどこか漆黒の闇に見えた。
ただ、短く結ばれたネクタイだけが赤い。
「ようこそ」
彼女はそう云って微かに笑みを浮かべると、白く細い腕で椅子へ腰を下ろすよう促した。
真っ赤な天鵞絨の貼られた椅子だった。
「ある男の話です。彼は世界の音を蒐集していました。ここにある音は彼の集めたもので、彼の存在の証しとも云うべき代物です」
「世界の、音、ですか」と僕は反芻するように呟く。
「そうです。アジア、西欧、東欧、中東、アフリカ、オセアニア、北米。そして、南米」
僕は真っ赤な椅子に背をもたせて、彼女の、メヌエさんの、口許を見つめている。
「はじめは、世界の音を聴いてみたいと云うささやかな興味からで。彼は絵葉書を集めるように音を蒐集していったのです。それを始めて間もなく、彼は音を規定するふたつの要素について気づいたのです。もちろん、眼前の風景や天候そうしたものにより音楽は異なるのですが。
旋律とリズム、それらは、肌の捉える温度と湿度により、違うのだと。
太陽に灼かれた国でも、絵画の彩度が異なるように、乾いた音と肌に絡みつくような音があるのだと気づいたのです」
彼女の紅い唇から、ほぅ、と云う息がわずかに漏れた。
「しかし、そうしたささやかな研究心は、いつしかその向こう側の世界に存在する音の根源とも云うべきものを見つめたいと云う深い願望へ移っていったのです。音楽に描かれた景色は異なれども、その根源には普遍的な生命力があると」
蝋燭の影が、彼女の頬の上で揺らめいている。
「そして彼はこの閉じ込められた世界で幾層もの音の螺旋を降りていくうちに、その中枢に神の影があることに気づいたのです。美意識の根底に潜む、神の存在に。正確には、彼の見つけたものは神の足跡になりますが。神の歩んだ記録、それが世界の音の中にひっそりと刻まれている、彼はそう気づいたのです」
神の、足跡。僕は、部屋の壁を埋めるように占めるレコードを見渡す。
「そうです。そして、彼はいつしかその神の足跡を追求め、神の声に辿り着きたいとまで思うようになったのです。世界にはきっと美しい神の声が記録されたものがあるのだと信じて。人類の美意識を超越した絶対的なものがあるのだと。そして、とうとう」彼は辿り着いたのです。「南米大陸に存在する、神の声に」
音の止んだ空間に蝋燭の揺らめく音が漂う。
「ですが、神の声は、聴いてはいけないのです。何故なら」魂を消してしまうから。
そう云って、彼女が燭台を手にして部屋の一隅を照らす、と。
埃に塗れた蒼い衣服を纏う骸の椅子に腰をかけている姿が浮かんだのである。
「正確には、神の声に、彼は魂を浄化されてしまったのです。この部屋で、美しき旋律と太古の宴のようなリズムを、土砂降りの雨にうたれるように聴き続けた末に」
揺らめく灯りに骸が照らされる。
「神の存在は、常に遠くにあるから美しいのです。ですが、触れ続けていると、それは魂を連去ってしまうのですよ。官能に厳粛な道徳が飲み込まれてしまうように」
そう云って、彼女は再びレコードを回し始めた。
掠れたギターのような音に、ガウチョの声がのった音楽が鳴り出す。
「神の存在に近付きすぎないよう」お気をつけ下さい。
部屋の隅ではこの部屋の主が、眼球の抜け落ちた穴で恍惚と世界を見つめていた。
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2005年02月20日

洋灯

冷気が渦巻いている。
月の光が射し込む空間に。
冷気が線を描き、不可視な蒼白い螺旋が滞留する。
空間が微かに色濃くなり。身体をつつむ大気がわずかに、重くなる。
もしかしたらこれも、誰かの、夢、なのだろうけど。
ふと、足音が響く。コツコツ、と。それは近くで止まり。女性の声が「ご機嫌よう」と。
そして、火が灯される。浮び上がる女性の姿。橙色に染められた肌。影のような黒い服。
燭台の上で揺れるちいさな炎が彼女を照らし出す。
燭台が握られた彼女の手。細い指。涼しげな目元。陶製の人形のような整った、顔。
短く結ばれたネクタイだけが、赤い。
ちろちろ。ちろちろ。と、炎が揺らめいている。
「ご覧下さい」彼女の言葉とともに、炎の周囲に浮び上がった橙色の球体が動く。
渦巻いた冷気がわずかに逃げ出して。蒼白く塗り込められた世界が崩れていく。
その先に浮び上がる、時間の痕跡。
ひび割れた男性の肖像画。枯れた花の束と埃に覆われた花瓶。蜘蛛の巣。そして。
いくつもの、洋灯。
壁に掛けられ。床に置かれ。その天井に吊るされ。空間を占拠しようとするように。
「如何ですか。この洋灯をご覧になって」その声に僕は我に返る。
彼女は手にした蝋燭を洋灯へと近づける。
陶製の上品そうな傘。本来なら透明な硝子。それらを厚く覆った埃。
「これらは、何なのでしょう? そして、この部屋は」僕はそう口にする。
彼女は微かに笑みを浮かべたような表情で答える。
「この洋灯は彼の存在した、記録、なのです」と。そして、言葉を続ける。
「この部屋はあの絵に描かれたひとのものでした。彼は翻訳家で、世界の物語を訳すことで日々を過ごしていました」そんな或る日。
「この部屋ひとつ分の洋灯を残して彼は世界から消失してしまいました」
誰にも、その理由はわかりません。と、彼女は肖像画の方へと蝋燭を向ける。
「ただ、この洋灯を収集するに至った経緯についてはわかりますが」
「炎が好きだった、とのことです。ちろちろと揺れる炎が。暖炉のような強い炎ではいけなかったのでしょう。暗闇で揺らめくようなものでなければ」
そして、どのようなものが、炎を、最も魅力的に演出するのかと。
「洋灯を集め出したのです」そう言って彼女は歩き出す。そして書架の前で止まる。
「ここに彼の訳した物語があります。彼のように、洋灯に獲り憑かれた男の話です」
「男は洋灯を見つめているうちに、その炎の中に女性を見つけ、恋に落ちるのです」
「褐色の肌に、黒く長い髪。大きな瞳。潤った唇。豹のようにしなやかな肢体」
「洋灯に憑いた悪霊とも言うべき、その女は言うのです。炎の中で」
わたしが欲しければ、こちらへ参られよ、と。炎の中へ参られよ、と。そして、男は。
「身を焦がすように。まさに、燃えてしまうのです。自身の手で」
先ほどまで拡散していた冷気が、再び渦を巻き出す。そして、空間が蒼白く染められて。
「ですから。もしかしたら、この部屋の主も、洋灯の中に彼女を見つけ、恋に落ち」
身を焦がしたのかも知れません。
そう言って、彼女は蝋燭の炎を消した。
再び蒼白い空間に静寂が訪れて。すべてを飲み込んでいった。
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2005年02月01日

夜汽笛


「夜空に輝く星を眺めると。とても悲しくなるのです」と彼女は云う。
続けて「夢と現実が連続して」「存在がわからなくなる」と。
夢による、存在の不確定。或いは、存在の喪失、とでも表現したら良いのだろうか。
「あれは5年ほど前のことでした」
珈琲茶碗に手を伸ばしたまま、彼女がぽつりと、こぼした。
「夢の中に汽車が現われたのです」わずかに強張った指の先。
「月と星の輝く夜の空から、煙りを吐き出しながら」やってきたのです。
「私は、それに乗りました」そう云って伸ばした手を、戻す。
彼女の何かが、震えている。そんな気がした。
「車内は木造の、古いものです」
「何人かが乗っています。それは私の知らない人が殆どですが。皆、悲しげな目をしていました」
「とくに会話もないまま、皆、窓の外を眺めています」
「暗闇の中で、無数の星が煌いては、消えていき」
「それは、長い世界の時間軸の中で、束の間煌いては消えていく人間の命のようでした」
「夢の中では、私にはひとつの使命が与えられました」車掌です、と云う。
「最初のころ、車掌とも云うべき人は、私の顔にそっくりのひとでした」
「そのひとは私の方を見ては、何か言葉にならない想いを伝えてきました」
「そして、何度目かの夢で、自分が本来そうすべきなのだと気付いたのです」
「それ以来、その夢の中で、私は車掌となったのです」
溜息が、漏れる。そんな夢を数年の間、毎晩見てました。と。
「私は、その汽車の中で、ひとりひとりの名前を確認します」
「そして」行き先を告げるのです。
「或る人は、溜息を吐き、或る人は、涙をこぼします」
「運命を知りながら荷馬車に揺られ行く子牛のように」
「実際、それが彼らにとっての運命なのです」
「汽車は毎晩、夜の空を走るのです。そして、何処かの駅で停まり、何人かが乗ってきます。まれに何処かで見たような人が乗ってくることもありました」
「或る日、私はそこに最愛の人が乗っていることに気付きました」
「木造の汽車が揺れる中で、私たちは笑みを交わし、ただ、その時間を愉しみました」
「そんな夢を三日ほど続けて見ました。そして、彼はさよならと言って居なくなりました」
「夢から醒めた私は、知らされたのです。彼が亡くなったと云うことを」
「それは夢の中で、彼が居なくなった日のことでした」
「彼は倫敦へ留学中でした。そして、私の夢に現われた日、事故にあったとのことでした」
「意識が不明になった状態で。そのまま。三日後に息を引き取ったとのことです」
「私は、ぼんやりと気付いていました」
「その汽車が、死の世界へ魂を運ぶものだったと云うことに」
「それに乗ったものは、間もなく死を迎えるのです」
「私は、この現実の世界に生きながら、魂は黄泉の世界に居たのです」
「夢の中で、汽笛が響くたびに。私は、この現実の世界で、誰かを失ったのです」
「最愛の人を失うまで」小さな溜息。漏れて。
「ですから、あなたが昨夜見たと云う夢も」最愛の人を失うまで続くでしょう。
残念ながら。そう云って、彼女は冷めた珈琲へ手を伸ばした。
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2005年01月23日

粉雪

粉雪が頬で溶けた。
彼女は言う。
「二月の匂いだね」と。

「お前が考えているほど、世の中甘くないよ」
それならさ。そう言って彼は立ち上がる。
「簡単だよ。粉砂糖でもまぶしちまえば良いんだ」

日付が変わろうとしている。
金色に輝く月が不眠症の街を照らしている。

「風見鶏も眠るのかな?」

「星の数だけ悲しみが存在しているんだよ」
ねじまき鳥がアイロニカルに笑う。

ピストルにロマンスを詰め込んだ。
「撃たれれば、たちまちのうちに夢の世界へと落ちていくよ」

まぼろし泥棒 「色の付いた夢を奪うのが俺の仕事なんだ」
まぼろし探偵 「君がどんなに他人の夢を奪おうとも、人は夢を見るものさ」

「道化師ってのは夢を奪われた悲しき人々の総称だよ」

海辺まで車を走らせる。
何でって? 星に照らされた海が誘うんだ。

「良いかい? 喜びってのは外からやってくるものだけど、悲しみは内側から湧き上がるものなんだ」
「ぢゃぁ、悲しみの泉でもあるって言うのかい?」

「気付いたんだ」と彼は言う。
「文学的であるということは、孤独なことなんだよ」
「何でかって? 言葉遊びってのは、独り遊びだからさ」

黒猫が欠伸をした。
何処かで誰かが恋に落ちた。

どんなに遠くへ行こうともついてくるこの影ってのは、田舎の呪縛だよ。
生まれたときからそうでなければ、ジプシーにはなれんのだよ。

「猫が欠伸をすると、誰かが恋をしたってジンクス、良いと思わん?」
そう言って彼女がコーヒーにミルクを垂らした。
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2004年12月27日

月と星ばかりの空。
頬にあたる風が冷たい。
僕はそんな夜に、駅にひとり、佇んでいる。
駅の名は『***』。
記憶のなかで、何かが反応するも、明瞭には思い出せず。ただ、眺めるばかり。
僕の目に映る『***』の文字。
読むことのできないそれは、そのまま異国の言葉のようで。
意味を失った記号。ふと、そう思った。
冷たい風が、吹く。
「ここは、雪は降らないのですよ」
不意に、声がした。見れば、ひとりの女性。
黒い毛皮の帽子に、黒いコート。夜だというのに、開かれた黒い日傘。
首に巻かれたマフラーだけが赤い。
「ここは、雪が降らないのです」彼女はもう一度そう言うと日傘を回した。
月明りの下で微かに動く、闇。
「風は冷たくとも」何も連れてくることは、ないのですよ。
そう言った彼女の顔に月の光が射す。切れ長の目に、冷たく。冷たく。
「あなたはこの駅から発つのですね。汽車に乗って。何処か遠くへ」
夜の空に浮かぶ線路。それを見つめながら。
「えぇ。目的の場所はありませんが。何処か遠くへ、行こうかと」僕は、そう答える。
風が線路の上を過ぎて行く。
「あなたの向かうべき場所は、この汽車に乗れば判るでしょう」
「色鮮やかに情景が浮かぶ町。そこがあなたの向かうべき場所です」
そう言って、微かに、笑う。
僕は問う。「それは何処にあるのでしょう」と。
微かに笑った彼女は、首を傾け、さぁ、と返す。
「私にも詳しくは判りません。残念ながら。もしかしたら、ずっと遠くなのかも知れませんし。そうでないのかも知れません。ただ、この道を進めば、いずれ」
あなたの望むものに到達することができるでしょう。
「ですから」あなたは、ここを発てば良いだけなのです。
僕は、再び駅名を見る。風に吹かれる『***』の記号。
それで僕は尋ねてみる。
「ここは何処なのでしょうか」と。
彼女は寂しそうな色をわずかに浮かべ、答える。
「ここは、かつてあなたのなかを通りすぎたひとの、名前なのです」
「そして、あなたの記憶から抜け落ちた、記録」なのです、と。
「ここを発てば、あなたはもう、二度と思い出すことはないでしょう」と。
風が過ぎる。
「ここはあなたの記憶の、深淵」なのです。
そう言って、彼女は再び、日傘を回した。クルクルと。クルクルと。
僕は月と星に照らされる線路を見つめた。
僕の来た道と、向かう道を思い浮かべながら。
冷たい風が何処からか来て、何処かへか去って行った。うっすらと見えない轍を残して。
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2004年12月02日

夜の蝶

青のベルベットのような、深い色した夜のこと。
何処からか黒い蝶が舞い込む。
鱗粉を落としながら、部屋中を、廻る。
白い月灯りが射し込む窓辺。
水の涸れた、硝子の花瓶。
枯れた一輪の薔薇。
鱗粉をこぼしながら、黒い蝶が、舞う。
と、不意に柱にかかった古い時計の鐘が鳴る。
時計の針は午前0時で止まったままだというのに。
僕は安楽椅子に腰掛けて世界を眺めている。
椅子の立てるギィーコギィーコという音を聞きながら。

オルゴォールの音。流れる。

見えない軌跡が夜の闇に描かれて。
暗闇のなかに渦を巻くように、漂う。
その音の合間。
不意に声がする。
「ご機嫌よう」と。夜の向こうから。
「いかがなさいましたか」と。跫音が近づく。
埃にまみれた部屋のなかで、ぼんやりと世界を眺めている僕の方へ。
「お久しぶりです」と、その跫音は近づいてくる。
コツ。コツ。と。
鍔の広い黒い帽子。黒いシャツに黒のスカート。そして短く結ばれた赤いネクタイ。
月の灯りに白い顔が浮かぶ。陶製の人形のような、綺麗な顔。
「時計の針が止まったままです」彼女の薄赤い唇が動く。
「時計の長い針と、短い針が重なったまま」切れ長の眼が僕を見ている。
「時計の長い針は、世界に存在する暗闇なのです」涼しげな目元。
「そして、短い針は」人間の到達した場所なのです。
彼女はそう言うと、僕の前で立ち止まった。古い仏蘭西人形のようだった。
「ふたつは同じ世界に存在しながら、常に人間は置いて行かれてしまうのです」
「どんなに人間が世界を知ろうと、暗闇を克服することはできないのです」
そう言って彼女は、悲しく微笑む。
「世界は幾層もの暗闇に包まれているのですから」音が止む。
「人間は暗闇を克服することはできないのでしょうか」僕は訊ねる。
彼女はわずかに首を傾け「わずかに、でしょう」とため息を吐く。
「人間の前進は限られたものです。しかしながら、その欲望は先に進むばかりで」
「先へと進む欲望は、常に闇を伴っています」
「闇は常に横たわっているのです」
と、彼女の肩に蝶が留まる。
束の間、静寂が訪れる。
僕は彼女を見つめる。
月の灯りが彼女を照らしている。
「まぁ、だからと言ってどうなるというものでもないのですが」
「世界は、そんな追いかけっこなのですよ」蝶が、再び、舞いはじめる。
僕は椅子から下りると夜の世界を眺めた。
深い夜の向こうに冬の星が輝いていた。
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2004年05月16日


円い月のふたつ並んだ。
紅い花がそれに照らされて闇のなかに。浮かんでいた。
そんな世界で僕は不思議な話を聞いた。
それはたぶんメヌエさんからのもので。
そのときも彼女はやはり黒いプリーツのスカートに黒の鍔広帽。黒いシャツに結ばれた短いネクタイだけが赤くて、いつものように夜だというのに日傘を広げて。クルクルクルと。
「ご機嫌よう」そう云って彼女は微笑んだ。
ふたつの月に照らされた彼女の顔。
陶製の人形のように白く、白く。
「この世界は今、分かれようとしているのです」
そう云って彼女は日傘を回した。
「こちらの月は悲しみに彩られた世界のもので、
あちらはまだ悲哀に色づいていない世界の」
そう云って彼女はクルクルと、クルクルと。日傘を廻して。
「こんな夜は不思議なことが起こるのですよと」と不思議な話を語り出した。
それは何処か南の方の島のことで、原色の花が咲く国でのこと。
「世界の果てを目指して旅だった青年はいくつかの満月を見た後、原色の花の咲く島へと辿り着きました」
その島で彼はひとりの女性と恋に落ちたという。褐色の肌に、瑠璃色の大きな瞳の女性。
「いつしかふたりはともに生活するようになりました」
ふたりは鳥の鳴声が朝の訪れを告げるとともに、花を摘み、部屋のあちこちに飾り。
陽が沈むまで海を眺めて過ごしていました。
「しかしながら、彼女は円い月が夜の空に浮かぶたび、悲しい顔をするのです」
満ち足りた生活であったにも関わらず。
「悲しい目は生まれつきでございます」
青年にその悲しみに満ちた表情を問われるたび、彼女はそう答えていました。
そんな或る日、彼女は月を見つめて悲しい眼をしていたという。
それは円い月がふたつ浮かんだ夜のこと。
「お願いでございます。私をお忘れ下さい」
そう云って彼女は夜の闇の中へと消えてしまいました。彼に一通の手紙を残して。
それは悲しい彼女の物語ですべての終りを記していました。
「私は蝶でございました。私は、紅い花や黄色い花の蜜を吸っては太陽が沈むまで海を眺めて暮らして居りました。
そんな或る日、貴方をその海でお見かけしたのです。
私は一目で恋に落ちました。そして、私はひとりの魔女にお願いしたのです。
人間にしてくださいと。
魔女は、円い月がふたつ現われるまで、と私に魔法をかけて下さいました。
貴方と言葉を交わし、ともに暮らした日々は楽しいものでした。
そんな日々がいつまでも続いて欲しいと思っておりましたが。
とうとう、魔法がとけるその日が来てしまいました。
貴方と過ごした日々は本当に楽しいものでした」
その手紙を見つけた翌日、彼は瑠璃色の蝶が海へ飛んでいくのを見たという。

どうにもこうにも月灯りに浮び上がったのは悲しみばかりのようで。
初夏だと云うのに風は冷たくて。
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2004年04月22日

八重桜

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群青色の空。
薄紅の雲。
薄い闇。
そのなかを八重桜の花びらが風に舞っている。
「ご機嫌よう」そう云ってメヌエさんが現れたのは、初夏というにはまだ早い四月の満月の夜だった。
もしかしたら、それも誰かの夢のなかだったのかも知れないのだけれど。
その日もメヌエさんは、黒いプリーツのスカートに黒のシャツ。黒の鍔広帽で広げられた日傘も黒かった。
短く結ばれたネクタイだけが赤い。
「桜もやはり、薔薇科の植物ですね。咲いても散っても綺麗なものです」
そう云って桜を見つめる彼女。
傘の上にもひらひらと落ちてくる花びら。
「いつの時代もこの香りが漂っていたのでしょう。この辺りには」
「香りだけが時代を超えてきたようです」
疎水沿いの道。彩る躑躅や石楠花。
その上にも桜の花びらがひらひらと。
「明日の方へ歩いて行きましょう。世界の進んでいる方へ」
月の明かりに照らされた彼女。陶製の人形のような、綺麗な顔。
彼女は僕を誘うように疎水沿いの道を歩き出した。
何処からかやってきた黒い猫が先を歩く。
「世界は前に進む以外にどうしようもないのです。何処へ進むかはわからないのですが」
空がだんだんと闇に埋められていく。
僕は猫の進む先が気になって尻尾を立てて歩く猫の先を凝視した。
しかし涼しげな顔をした猫は闇のなかをとことこと進んでいくばかりで。
もしかしたら「まぁ、ゆっくりと参りましょう」そんなふうに云っていたのかも知れないが。
月明り。
太鼓の音。
何処からか祭囃子。
「桜の花が咲くのは、この春という季節だけなのです」
音は次第に大きくなり、僕の意識を揺さぶりはじめた。鉦の音。鉦の音。笛が鳴る。
「ですからゆっくりとこの時間の廻廊を参りましょう。月と花を愛でながら」
風が吹いてきて桜が舞った。
桜の香りが僕の内部をくすぐる。甘い匂い。
月に照らされた景色は影絵のようで、桜や躑躅の花々だけがその色を浮かべている。
「月と花が示しているものをご存知でしょうか」
「月と花ですか」僕は首を傾げた。
「月は世界の営みの短い時間軸を。花は長い時間軸をそれぞれ示しているのです。
それぞれが時間を刻み、世界はその上でゆっくりと転がっているのです」
「それ故、世界はゆっくりと前に進むのです。螺旋階段を上がるように。
人間の営みも本来そうしたものの上に存在していたのですが。
残念ながら今は、この世界から逸脱するばかりで」
そう云って彼女は悲しげに遠くを眺めた。
鉦の音。笛の音。
太鼓が響いて。
桜が舞った。
緩やかに巡る季節のように、彼女の日傘がクルクルと回っていた。
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2004年02月01日

蝋梅

雪。
暗い空から。しんしんと。
雪。雪。
蝋梅の甘い匂いの辺りにも。しんしんと。しんしんと。
黄色い花すらもモノクロォムの世界へと変貌していく。
雪。雪。雪。
そんな風景のなかでメヌエさんに遭った。
その日の彼女は黒のスカートに、黒のロングコート。黒の鍔広帽で。
冬の夜だと云うのに、さされた黒い日傘。首に巻かれたマフラーだけが赤い。
「ご機嫌よう」そう云ってクルクルと傘を回した。
綺麗な形の目。素敵な唇。雪のように白い肌。整った顔の微笑。ビスクドール。
クルクルと傘が回る。クルクルと。
「これから倫敦堂へ参りますが。おいでなさいますか」
それで僕たちは疎水沿いの道を倫敦堂へと向かった。
彼女の先には黒い猫が尻尾を立てて歩いている。鈴の付いた首輪が赤い。
猫に案内されるように僕たちは煉瓦造りの家へと入った。
空間を埋める書架。骨董。充満した古書の匂い。
その奥に倫敦堂の主はいつもと変わらなく居た。
山羊のような髭。円い眼鏡。三白眼。時が止まったような世界。
そんな風景のなかに、不思議な模様の石。
「この石のなか、見えますか」そう云ってメヌエさんがそれを寄越した。
瑪瑙のような桜色の石。そのなかに、一輪の花、が見える。ちいさな花。紅い。
「花、ですか」
「えぇ。花です」
硝子に閉じ込められたような、水槽に沈んだような、花。
「この石を所有していた方は、鉱石の収集家でした。常々、彼は石に囲まれて暮らしていたいと語っていたそうです。そんな彼が最も気に入っていたのがこの石です」
紅い花。どこか妖艶な。
「もともとは植物の種子が入っていたそうです。ちいさな、何の種かは判りませんが」
「主は片時も離さず、暇があればそれをじっと見ていたそうです」
「いつのころからか主は、その種子へ不思議な愛情を持ちはじめたそうです。それは情が移る、といったものに近いのかも知れませんが。もっと偏質したものだったのでしょう」
「そんな冬の或る日、彼は姿を消したそうです。その石を残して」
「家族が手を尽くして捜したそうですが、彼の姿が見つかることはありませんでした」
「しかし、後日見つかった彼の日記から不思議な記述が見つかったそうです。そこには、この花の妖精が見えるのだと。そして、それが話しかけてくるのだと。こちらへおいでと」
ちいさな、紅い花。よく観ると、先ほどよりも僅かに色が増したような。
「くれぐれも覗き過ぎには御注意下さい」そう云って彼女は笑った。クスクスと。
「あなたも消えてしまうかも知れませんから」そう云って。クスクスと。
冬の風が窓を叩いて何処かへか去っていった。後に奇妙な静寂を残して。
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2003年12月25日

まばたきの瞬間

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星の降った夜の出来事でした。
不思議な夢を見たのは。
「今晩は」なんて言葉でメヌエさんがやってきて「お茶でも飲みましょう」と誘ったのは。
その日の恰好もやっぱり黒ずくめで首に結ばれた短めのネクタイだけが赤かった。
「ご機嫌よう。星も降るような季節になると温かいミルクティーが欲しくなりますね」
そんなことを言って日傘を回して。クルクルと。クルクルと。クルクルと。
何回か回した後で、「鹿ケ谷の喫茶店に参りましょう」と彼女は月の輝く方へ歩き出した。
星が煌いて。月はちょっとだけ欠けていて。風が心に沁みるほどに冷たくて。
「フェムト秒って言葉をご存知ですか?」
気づけば彼女の前を黒猫が歩いている。尻尾を立てて。背筋を伸ばして。トコトコと。
「フェムト秒ですか?」と僕はその先を歩く猫に目を遣りながら答えた。
「そうです」彼女の足がその猫を追うように過ぎていく。
「わかりません」僕はちょっとだけ首を傾げた。
「フェムト秒は瞬きよりも短い刹那なのです。ちいさなちいさな時間なのです」
「ちいさな時間。なのですか?」
「そうです。とても小さいのです。そして、それはとてもちいさな歯車なのです」
「歯車? なのですか」
「えぇ。三日ほど前、その歯車が狂ってしまって。それで、今、世界の時間は微妙にずれてしまっているのです。この夜でさえ、ずれた時間のなかに存在しているのです」
「ずれた時間? それは、どれほどに、ずれているというのでしょう」
「心の隙間に風を感じるほどに、です」と云って、メヌエさんは月を見上げた。
「でも、すべてが狂ってしまっているでしょう。この夜も。貴方の息遣いも。あの猫の足取さえも。そうなってくると、何が正しいものなのか、わからなくなってくるでしょう。だから取残された心だけが虚しさを感じてしまうのです。一枚だけ残ってしまった葉っぱのように」月の灯かりに照らされた彼女の顔が白く浮かぶ。ビスクドール。白亜の。
コロンコロン。と何処かで鈴が鳴った。見れば猫が立ち止まってこちらを見ている。
首には赤いリボン。鈴が付いている。
ニャア。とひとこえ、啼いた。尻尾が波打っている。
「着きましたね」白い洋館の前だった。
メヌエさんは日傘を畳むと目の前に現れた白い建物へ入っていった。それで僕も続いた。
甘い香ばしい匂いがする。アップルパイでも焼いているのだろうか。
「今夜は紅茶でもいただいて、時間のことなど忘れましょう」
そんなふうに彼女は言って、軽く微笑んだ。
彼女の腰掛けた窓辺の席からは蒼白い月が見えていて、やっぱりちょっとだけ欠けていた。
にゃあ。と彼女の膝の上にのった猫が啼いて。星が煌いた。そんな夜だった。
posted by flower at 16:42| Comment(0) | TrackBack(0) | メヌエット | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年12月19日

蠍座

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メヌエさんを見つけたのは、蠍座が空に煌いた夏の夜のことだった。
月は細い三日月で。星が光苔のような儚げな灯火を寄越してきた夜。
辺りには百合の匂いが、漂っている。
そんななかに不意に黒い日傘の彼女が現われた。
「ご機嫌よう」と云って。日傘をクルクルと回して。クルクルと。クルクルと。
黒の鍔広帽に、黒いシャツ。黒のスカートで、短く結ばれたネクタイだけが赤い。
儚げな月の光を浴びた彼女の肌が白く浮かび上がる。ビスクドールのような顔。
「ご機嫌よう」もう一度そう云うと、彼女は微笑んだ。
真夏の夜の夢のような、儚げで幻想的な笑顔。
切れ長の目が妖艶な魅力を漂わせている。
それでありながら心の隙間までも見ているような。
不意に風が横切った。闇のなかで木々がざわめく。均衡を破る見えない粒子たち。
ざわざわざわ。ざわざわざわ。ざわざわざわ。ざわざわざわ。
にゃあ。
彼女の足元に目を遣ると、黒猫が一匹。こちらを眺めている。
首に巻いたリボンだけが赤い。尻尾が揺らめいている。
「これから倫敦堂まで参ります。ご一緒しませんか?」
そう云って彼女は黒い日傘をクルクルと回した。
クルクルと。クルクルと。夏の花が香る。
日傘を照らすアンタレスの光。何万年も向こうからの伝言。
「参りましょう」そう云って彼女は歩き出した。尻尾を立てた黒猫が夜道を先導する。
しばらく行くと赤い煉瓦塀の家が見えてきた。黄色い電燈に照らされた看板。
倫敦堂、とだけ書かれている。
そのなかへと入っていく黒猫。彼女。そして僕。
古い建物。床から時間の堆積が伝わってくる。空気までが古い。
部屋中の壁を覆う古書。部屋の空間を遮断する古物。山羊のような白髭の主。眼鏡が円い。
「これは世界を観測する道具なのです」近くにあった何かを手に彼女がそう云った。
「観測、ですか」螺旋を巻くメヌエさんの手を眺めながら。僕は呟くように云った。
「えぇ、そうです。世界を観測するのです。見失わぬように」白い肌。細い指。
「世界は膨張しているのです」言葉を紡ぐ、唇。ビスクドールのような、顔。
チクタクチクタクと音がする。メトロノームのような機械。針が左右に揺れる。
「世界は膨張しているのです。どこまでも空間を侵蝕しているのです。しかし、その中身はと云えば。薄まる一方なのです。そして、その結果、世界は自分を見失おうとしているのです。背伸びをしたがる子どものように。この暗闇のなかで」
チクタクチクタク。古い空間のなかに響く、音。
「この音が正確に時と同調していれば、世界が路頭に迷うことはありません。しかし、最近では僅かに齟齬が起きています。夜の間、ですが。自分を見失おうとする世界に夢を見させる以外、それを止める方法はないのです。現在では」切れ長の目が窓の外を見つめた。
チクタクチクタク。真夏の夜に響く音が、耳の奥にまで忍び込んでくる。
古惚けた窓硝子から覗く三日月が、ちょっとだけ寂しげに思えた。
posted by flower at 14:17| Comment(0) | メヌエット | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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