2013年08月17日

記念日

私は***よって殺された。
仕事を奪われ、
友人を奪われ、
子どもを奪われた。
人間としての自由な領土と時間と
個人の財産を奪われ、
そして、虚偽と誇張により信頼を失った。

温かい家庭の為に手に入れた家は廃墟のようなものに変貌し、
残ったのは空虚な時間ばかりだった。

生きている意味が判らないほどに漠然とした日々が重なっていく。

どれほどのことがあって
人から自由や友情や尊厳や子どもへの愛情を奪えるのだろう。

私の掌には無意味に時間を塗りつぶすアルコールの為の金しか残っていない。

私は***によって殺された。
悲しみと怒りが肉体を蝕んでいく。

私ははやく世界から消えてしまいたい。
消えてしまって、穏やかな日々へと埋没したいのだ。

***の記念日には
私の肉体に刻まれた悲しみと怒りを贈ろう。
丁寧に艶やかな包装紙で飾り、
時間を指定して届けよう。

***は刻まれた私の肉体を見てどう思うのだろう。
「またひとり死んだ」とだけ思うのだろうか、
とりあえずの悔恨を口にするのだろうか。

私は***によって殺された。

母親の愛情を奪われ、
わずかばかりの夢も奪われた。

孤独な時間ばかりが積み重なっていく。

あと幾日かしたら記念日だ。
そのときは私の肉体を切り刻んで贈ろう。
時間を指定して、
綺麗な箱で。

***はホルマリンに漬かった私を見てどう思うのだろう。
「残念なできごと」とだけ思うのだろうか、
あまたの言い訳を口にするのだろうか。

私は***によって殺された。
そして、暗闇ばかりが残された。
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痴図

私たちは知らない街の地図の上で逢瀬を重ねた。
素敵な名前の喫茶店があれば、
「ここで二人で紅茶を飲んだのよね。貴方は新聞を広げて、わたしは詩集を読んで」
彼女はアールグレイの紅茶を飲みながらそんな話をした。
気になる洋食屋があれば、
「ここのゴルドンブルーがもう一度食べたいわ。あと、あのオムライス。デミグラスソースが半熟の卵とよく合うの」などと幻の記憶に舌鼓を打った。
私はそれに合わせるように、ときに小さな出来事を話し、ときに会話の断片を話し、彼女の記憶に色を着けた。
また或る時は、バーであったり、映画館であったり、美術館であったりしたが、それぞれに物語を付与し、豊かな思い出へと昇華させた。
作られた思い出の中には、情熱的な愛についての物語や、何とも言いようがない悲しい話もあった。
「この小径、覚えてる?」と彼女は云う。眼には悲しげな色を浮かべている。
「あなたとケンカをしたの。何が理由だったかは思い出せないけど、とても切なくて」
そう云って最後には涙を浮かべて。
私はケンカの理由を必死で取り繕って、涙を浮かべる彼女を優しく抱いた。
「もう、ケンカはしないよ。愛しているのだから」私は優しく彼女の唇に口づけをした。
すると、瞳以上に潤いを持った唇は、私へ艶やかに返答する。
「ねぇ、もっと愛して」と。
私たちは抱き合うようにしてベッドに倒れ込み、地図帳をめくるように一枚、二枚と衣服を脱がし合っていった。
「あなたと泊まったあのHと云う街のホテルが素敵だったわ。ロビーがクラシックなサロンのようで。美しいシャンデリア、赤い絨毯、緑色の壁には古いヨーロッパの町並みと子どもたちの写真。
部屋もよかったわ。昔の映画で見たような落着いた内装に、シックな調度品。広い部屋の窓からは、美しい山々が見えて。私たちは、あのふかふかの大きなベッドで何度も愛し合ったのよね」
彼女は「あの夜の会話、覚えてる?」と訊ねてきた。
それに対し、私は最初とぼけて返答した。
彼女は「ヒドいわ。もう、忘れたなんて」と云って、私の“忘れた”物語を話してくれた。それを聞いているうちに、私は「そうだったね」「いや、違うよ」と相づちを挟みながら、物語を思い出すことに努めた。
そんな会話のひとつに、
「わたしの身体のこと、覚えてる?」と云うものがあった。
それは彼女の身体の部位についてのエピソードを求めるものだった。
私は「あの街で、とても可愛がったね。きみが、そこが感じるからって」
そんなことを云って、私は彼女の、乳房を、耳朶を、太腿を丁寧に愛撫した。
そして、「恥ずかしがって、なかなか見せてくれなかったけど。でも、本当にとても美しいよ」と彼女の花びらに口づけをした。
彼女のそこは、唾液で濡れるよりも前から、朝露が溜まったかのように、十分に潤っていて、素敵な香りを漂わせていた。
彼女は「いつまでも忘れないでね」と云って、私の身体に強く愛を求め、官能の記憶へと埋没していった。

見知らぬ街の地図を広げるたびに彼女の声が甦ってくる。あの肉感とともに。
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2013年08月12日

生きているといろいろなことに遭遇するが、これは一昨年の夏の話である。
その頃の私は、仕事がらみの人間関係に悩まされ、また、並行して私生活でもトラブルに見舞われ、鬱々とした精神状態にあった。
このままでは潰れてしまう、との本能的な危機を感じた私は、飛び出すようにして家を出たのだ。いつもの乗り馴れた自転車で、いつも持ち歩く鞄(中にあったのは財布と本くらいだった)を持って。当然シェラフなどはなかった。
どこかへ向かうアテなどなかったが、何となく自転車は隣の県のS湖を目指していた。
S湖は縦に長く、かつては運搬や交通の要所としての機能も果たしていた湖でもあった。
家を出て二日目のことである。
湖の北部の辺りを走っていた私は、不思議な集落に入ってしまったのだ。
不思議な、と表現するとナンだが、余所者を排除するような閉鎖的な雰囲気が漂い、狭い一本道の関所のような入口から入った途端に違和感を受けた。
違和感の中身は、古い町並みが残っているとか、古い名残が残っている、と云うものではなかった。四十軒ほどの家があるのだが、家々自体は現代的な意匠のものもあり、格別な古さが漂っているわけではない。
恐らく家の配置とか、街に堆積した住民の営みが産み出す特質なのだろう。後で判ったが、その集落は険しい山々と湖の間に存在し、湖を渡ってくるか、関所を通らなければ入ることができなかった。
その集落に入ったのは、西の空が赤く染まりだした頃だった。
初日は屋根のあるバス停で寝たのだが、その日はせっかくなので民宿にでも泊まろうかと思い、集落の中をウロウロとしてみた。
二軒ほど民宿の看板を出した家が見つかったが、どちらも今は廃業しているとのことだった。空き家でもないかと探してみたがそれもないようで、仕方なく私は集落を見下ろすようにして存在する神社で夜を明かすことにした。神社はその集落を守護する存在なのだろう、集落名のついた神が祀られていた。
境内には人気はなかった。社務所らしき建物にも誰かが居るような気配はない。
私は境内の傍らの人目につきにくい場所に自転車を停めると、お堂の中で休むことにした。
お堂の中には埃を被った本尊が一体置かれている。
私はその神に一礼をすると、その晩の加護を祈念した。
さて、その夜である。
旅の疲れもあり、来る際に手に入れたお酒を飲んだこともあって、私は深い眠りに導かれたのであるが、何故か夜更けに目を醒ました。後で振り返れば寧ろ起こされたと云えなくもない。
お堂の外から声がした。何を云っているのか明瞭には判らない。
ただ、何かを口論しているような空気が伝わってきた。
お堂の格子戸から外を見ると、月灯りの中に殺気立った武士のような二人が相対するのが見えた。刀を正眼に構え、何か声を発している、ように思えた。
しかし、その身体には首から上がないのである。首から下の人形。
声はどこから出ているのか、と思って周囲を見渡すと、傍らに落ちた首があり、そこから発せられていた。
首は云う「この怨みを今宵晴らさん」と。もう一方の首が云う「汝、切り捨てん」と。そして、胴が動きだし、刃が互いの肉体を斬りつける。
私は恐れながらその風景を見つめていたのだが、不意にこちらを見た首と目が合った。
ぎろりと目が私を捉える。「人の匂いがする」「人の匂いがする」首が云う。
ざくざくざくざく、玉の石を踏みしめる跫音が近づいてきて−−。
私は恐怖心から神に祈るばかりだった。
そして、祈るうちに、いつしか私は気を失っていた。

気がつくと辺りは陽の光を浴びていた。
私は一目散にそこを離れ、誰か人の居る場所を求めた。
何キロか先の煙草屋で漸く人と話すことができた。そこで件の話をすると、「あすこは怖い場所なんだ」とだけ云われた。

何度思い出しても不可解な思い出である。
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2013年08月05日

初恋

私の何度目かの恋の話である。

その恋人はツルゲーネフの『初恋』が好きだと云う女性だった。
古本屋で見つけると必ず買い、大事そうに持ち帰っては広くない自室の本棚に丁寧に並べた。
文庫本もそうでないものもあったが、字も読めないのに海外のものまであった。
「言葉も、ジナイーダの存在も魅力的だけど、初恋と云う言葉が好きなの。だから買っちゃうのよね」
バラのジャムが入った紅茶を飲みながら、その女性はさっき買ったばかりの何百何十何冊目かの『初恋』を手に語った。
「初恋って瑞々しい果実のようであり、霜柱のように儚いものよね」
女性はそう云うと、小説の中の一節を朗読した。
「好きなんだ、この文が」うっとりとした表情を浮かべる。
と、不意に、女性の目が私を捉え、私の頬を白い指で撫でた。
ゆっくりと白く細い指が上下し、愛撫する。
「もぎたてのプラムのようね」
私の産毛を、確かめるように。
「もっと触れていいかしら」彼女の十本の指が私の顔を包む。
そして、赤い唇を近づけ、私の口唇に触れた。
幾度か強く寄せられ、幾度か強く返した。
幾度目かで互いの割れた口唇からぬらりとした触覚が伸び、縺れ合った。
指が互いの顔を、頭部を愛撫し、背中から臀部へと移った。
数分後、彼女がゆっくりと服を脱ぎだした。
ひとひら、ふたひらと花弁が落ちるように、服が床に広がる。
紫色の薄いレースのシュミーズだけとなった彼女は、椅子に腰を下ろす私の膝上に跨がり、『初恋』の一節を読み上げた。
私の眼前には小さく尖った乳房が透けて見えている。
それもまた、初々しい果実のようであった。
「何度も初恋ができたらと思うの。あの、切なさを。あの、心の昂りを、何度も味わいたいの」
そう云うと、彼女は私の唇に自身の乳房を押付けて寄越した。
シュミーズ越しにその尖端が当たる。
私はそれを唇で受け止め、唾液のついた舌で弄んだ。
女性の口からため息が漏れる。
私の愛撫に呼応するかのように、女性の手が私を掴み、昂った想いを更に挑発した。

四方を本に囲まれた彼女の部屋で、私たちは何度目かの初恋を楽しんだ。
夜が更け、朝の陽が窓辺に伸びてきても、私たちは愛を語り、愛を確かめた。
女性は云う「どんなに肉体が素敵な快楽の中にあったとしても、不思議なもどかしさを感じる時があるの。互いの敏感な部分を触合わせているよりも、口づけをしているだけで、相手と感応し合えていると思う時が。私はそんなひとときを求めてしまうの」
女は私の唇に自身の小さな唇を重ねると、恥ずかしそうに笑った。
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2013年07月11日

備忘録

路地裏の牧師は云う。
「自然界に直線は存在しない。だから、人生も真直ぐに進みえないのだ」と。
続けて神父は云う。
「紆余曲折を経て、神により決められた何処かに辿り着く。そう云うものなのだ、人生とは」と。
憂鬱も人生に於いては、何処かに辿り着く過程のひとつなのだろうか。

先日逮捕されたK氏の、猟奇的な犯行の動機は
「愛が欲しくて、唇を奪ってしまいたくなった」と云うものだった。
そのために、何人もの唇が彼の手によりより奪われてしまった。
果たして彼は幸せを感じることはできたのだろうか。

夢の世界に埋没しても、寂しい現実が私を追いやる。

ミルキィが母の味なら
父の味は何だろう
マイルドセブンか神の河か
苦くつらい思い出か

愛情と憎しみが冬の泥濘のように混じってしまった。
日常は灰色で、身体を重ねても、心は何マイルも離れているようだった。

「愛してる」と十回云っても互いの肉体は冷たいままだった。
手と手を重ねても、風が吹けばどこかへ飛んでいく奴さんのようで、ただただ知らないフリをすることで存在をつなぎ留めていた。

猫氏曰く「誰も信じられなくなったなら、自分の顔を見つめる以外にない」とのこと。

「愛を求めても、愛し方を知らなかったら、小鳥のように飛んでいってしまうよ」

私はあの人が残していったコーヒー豆をミルにかけ、ゆっくりとドリップしてみた。
焦げ付いた時間のような、黒っぽい液体がサーバーに溜まり、あの人の口紅がついたカップに注いで飲んだ。
苦さばかりが口の中に広がる。
憂鬱と寂しさがない交ぜになった味だった。

あの人の白い肌。
あの人の黒い髪。
あの人の大きな目。
あの人の柔らかい唇。
あの人の細く長い四肢。
あの人の果実のような香り。
夏の夜はそんな記憶ばかりを私に突きつけてくる。

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2013年07月06日

かたつむり

昼下がりの店内、ラジオからボサノバが流れている。
それに合わせるかのように鼻ずさみながらバイトの女の子が窓ガラスを磨いている。
と、不意に手を止めて、ガラスをまじまじと見つめる。
「亜沙美さん、何かあった?」
マスター、グラスを磨いていた手を止めて、女の子の背中に声をかける。
「カタツムリが、ガラスの向こう側に」女の子、単語を並べるように返答する。
「まぁ、梅雨だからね。にしても、気持ち悪くない?」マスター、苦笑を浮かべて。
「気持ち悪いんですけど、こんな風にしてみたことがなかったので、ちょっと見入ってしまいました」女の子が、少しだけ恥ずかしそうに笑いながら振り返る。
「亜沙美さんらしいね」マスター、煙草に火を点けて、少し呆れたように。
と、何かを思い出して笑う。
「そう言えば、昔付合ってた人にナメクジが苦手だっていう人がいてね。もう、見ただけで発狂しそうになるんだけど。そんな人が、ナメクジと風呂場で遭遇してね。
キャーって叫ぶから、何だろうって思って慌てて行ってみたら、全裸の彼女がお風呂場の隅っこで怯えてて。指さす方を見ると大きなナメクジが居て。
でさ、なぜかオレ、そのときにケチャップ持ってたんだよ。何でだろう。
まぁ、それを彼女が見つけて。ケチャップをオレから取り上げて。
で、ナメクジにグジュってかけて。
凄まじい光景だったよ」
女の子、引き攣ったような笑みを浮かべながら「セイサンな光景ですね」と。
マスター、頷きながら、白いケムリを吐く。
「これまでの人生で三番目くらいに凄まじい光景だったね。血のような、真っ赤な液体の中でのたうってるんだよ、ナメクジが。サスペンスドラマの被害者みたいに」
マスター、その様子を自身の肉体で表現する。
「でも、何でケチャップ持ってたんですか?」女の子、首を傾げながら。
マスターも首を傾げて。
「オムライスでも作ってたのかな。それ以外に使うことはないからね。
オムライスの上に文字を書こうとしてたとか。エル、オー、ブイ、イーとか」
カウンターに指で文字を書きながら。
「それも、ある意味、セイサンですよね」女の子が笑う。苦笑を浮かべるマスター。
「亜沙美さんもやったことあるの? ケチャップ文字?」
「二回ぐらい。付合ったばかりの男の子に、人間だものって書いたオムライスを出したら、思いっきり引かれましたよ。失敗したオムライスをフォローしたつもりだったんですけど」
「なかなかシュールだね」マスターの鼻からケムリが漏れる。
「ちなみに、これまでの人生で体験した凄まじい光景の一番と二番は何ですか?」
「二番はケンカをしたときの相方の怒りっぷり。平和な都市が空爆で壊されていくような暴れっぷりで、部屋がメチャメチャだったからね。まぁ、原因はこちらなんだけど」
「じゃぁ一番は?」
「凄まじいというか、ある意味ショッキングだったんだけど。
居眠りをしているときの、亜沙美さんの寝顔。女子という存在に初めて疑いを抱いたからね。ヨダレが口の端から滴る光景に」マスターの人差し指が口の端を示している。
「まぁ、美人も人間ですもの」女の子、そう言って軽やかに笑って。
窓の外では、紫陽花色の風が吹いて、風鈴を揺らして逃げて。
posted by flower at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 喫茶 ベダード   | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月30日

絵画

ずいぶん前に趣味の良い友人Aが遊びに来た際、「旅の土産だ」と云って一枚の絵画を置いていった。それはバリ島で手に入れたとかで、細かな筆致で、と云うより寧ろ微粒子を捉えたような、小さな点々を結んで空間に対象物を浮かび上がらせた技法で描かれ、これまで私が目にしてきた欧州の絵画とも日本の絵画とも、ましてや中国のそれでもない作風だった。絵画は手彫りの木の額に収められていた。
そこに描かれていたものは、A曰く「イカした “悪魔”」だとかで、奇妙な風采の、極彩色の服を纏った“悪魔”が暗闇の中に潜んでいるものだった。
「こいつは、日本の鬼子母神の原型だぜ」
Aはその絵画を手に入れた経緯を含め、あれこれと彼の審美眼が旅先で何に反応したのかを語って寄越したが、私はその奇妙な絵に眉を顰めながら、もうひとつの土産であるアラックを口に運んだ。その絵画は仕事場に飾ることにした。
奇妙な“悪魔”の絵は独特の空気感を漂わせており、飾ってみるとやはり違和感を持っていて仕事場の雰囲気に異質なテイストをもたらしたが、次第に私のなかではその異質さは日常の風景のアクセントへと消化されていった。
ただ、初めて訪れた編集者や客人はその絵画に一度は目を惹かれ、皆「ちょっと怖いですね」と口にしていった。
2年ほど経った頃だろうか。アシスタントで雇った美形の女の子が、部屋の掃除の際に、その絵画を落としたのだった。「埃を取ろうと思って」ハタキをかけたときに、留めていた金具から外れて落ちてしまったそうだ。
暗闇の部分に裂け目ができたのだが、まぁ暗闇の部分だから目立ちもしないし、と私は何もせずに置いておいたのだが、それ以来しばしば不幸が重なった。
長年職場で飼っていたインコが籠の中で亡くなっていたのを始めに、生い茂っていた観葉植物が枯れ、電気製品が不調になるなど、何となく厭な空気感が仕事場に漂い出した。そうなってくると、仕事の方にも悪影響が現れ始め、些細なミスが大きな失敗を招いたり、仲の良かった出版社と諍いが起きたりで、日常的に苛立つことが続いた。
私はその絵画の所為だとは思っていなかったが、アシスタントは、その“悪魔”に似た何かが夜中に仕事場を徘徊しているのを見たとかで、不調の原因を“悪魔”の所為だと主張するのだった。
「お財布を忘れて、事務所に取りに戻ったんですが、入口のドアを開けると人影が見えたんです。最初、空き巣かと思い、警察に通報しようとしたんです。携帯電話を取り出して、番号を入力して−−とそこでもう一度人影を確認しようとしたんですが、目の前で消えてしまったんです。音もなく、本当に一瞬で」
私はその話を聞いて、逆にその絵に興味を持ち、まじまじと観察してみた。以前と何かが違っているように思うが、何が違うのか判らない。ただ、違和感が存在している。
と、私の背後から見ていた女史が、怯える声で「牙が伸びてます」と呟いた。
確かに以前は見えなかった牙らしきものが、口の端から伸びている。
数日後、件の女史は辞めてしまった。
後日談だが、件の女史が去った際、幾ばくかの現金がなくなっていることに気付いた。少なからずこの間起きていたトラブルも彼女に起因するものだということが判った。
悪魔よりも、小悪魔か−−と私は心のなかで呟いた。
牙の伸びる絵画−−趣味の悪い私は、悪魔が現れたならどんな契約を結ぼうかと夢想しながらその絵を未だに飾っているが、残念ながら一度もお目にかかれていない。
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2012年06月14日

朝露

「ねぇ、もう少しだけ」と女は言い、私の耳を噛んだ。
女が私の身体をまさぐりだす。
掌が喉を、項をまさぐり、顔を構成する部位を一つひとつ確認していく。
目を、耳を、鼻を、そして唇を。
唇を摘み、撫で、そして自身の唇で愛撫を始めた。
唾液と唇と舌が淫らな音を立てる。
「夏は嫌いよ。すぐに朝になっちゃうから」
女はそう言って、私の唇に熱い口づけを施した。
私の口内で女の舌が蛇のように蠢いている。
舌の根や歯の裏にまで潜り込み、撫でていく。そして、強く私の舌を吸う。
「でも、裸でいても寒くないのは好きかも。あなたもわたしも、裸のまま、ずっといられるから、あなたの身体をこうして感じていられる」
女はその唇で私の乳房を舐めだした。小さな私の乳首を悪戯するように。
左右にある乳首のうち、右を女の舌が、左を女の右手が、それぞれに挑発している。
上に乗った女の下腹部が私の腹部に触れ、生暖かさが伝わってきた。
私の目に枕元の時計が映った。午前6時になる10分前だった。
「冬ならまだ、真っ暗な時間よ。なのにもう今は、外は明るくなってきて」
カーテンのない私の部屋は朝の光に侵蝕されつつあった。
そして、その光は、私や女の身体をも覆い始めた。
女の白い肌がいっそう白くなっていく。
果実のような臀も、掌に収まりそうな女の胸も、細い腕も、長くしなやかな脚も太陽の光に染まり、夜の闇の中で蠢いた女の肉体とは違って見えた。
急激に私は欲情した。
女の身体を激しく求めたくなったのだ。
その乳房を、臀を、肌を、その身体にうっすらと漂う汗の匂いまでも。
加速しだした欲情に押され、最前女が私に施していた事を、今度は私が女に施し始めた。
女を下にすると、女の顔を構成する部位の一つひとつを丁寧に舐め、四肢のあちこちを刺激した。指の先で、舌で、歯で、できる限りの愛撫と挑発をした。
そして、それらの行為は女の身体の中心へと次第に向かっていき、脇の下から両の胸に移行すると、最も熱くて、敏感な場所へと向かった。
女の脚を広げると、朝露に濡れた芙蓉ように、女のそれは既に潤いに満ちているのがわかった。女の顔を見れば、瞳まで潤っていた。
「焦らさないで。お願い」
猫がねだるような女の声を無視して、私は女に丁寧に口づけを始めた。
もちろん子猫の方にである。軟体の生き物のように舌を這わせ、女の露を楽しんだ。
女の口から漏れていた声が、大きくなっていく。
そして、女の手が、私の肉体に催促しだした。
「もう、待てないの」
上体を起こした女がその口で私を潤し、そして、互いの肉体を交錯させた。
朝の光の中に存在する女の淫らな顔は、何とも云えないほど愛らしく思えた。
何度も口づけを交わし、上になり、下になり、互いの肉体を確認し合った。
しばらくして私たちはそれぞれに快楽の極みに達すると、朝の光の中で眠りに落ちていった。
先に眠りに落ちたのは女だったが、朝陽を浴びたその寝顔もまた愛らしいものであった。
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2012年06月12日

問い

理不尽に問いかけられる、と云う経験がおありだろうか。
まぁ、大人になれば毎日のように何かしら問題を突きつけられるが。

私が幼少の頃の話である。
夏の終わりに友人とカブト虫を捕まえに行った帰りに、不思議な家を見つけた。
不思議な、と云うとナンだが、ボロボロの家で、人が住んでいる気配が感じられない、廃屋だった。
車の往来がまったくない旧街道から少し離れたところで、鬱蒼とした杉や樫などの樹々に隠れるようにしてあったそれを、一緒にいた友人が見つけたのだ。
その歳頃の男子なら当然持ち合わせている(そして、厄介ごとばかりを引き起こす)好奇心から、私たちがその家屋を探検してみたくなったのも当然の成行きだった。
家の規模は大変大きかったように記憶しているが、もしかしたら幼かったのでそのように思い込んでいるだけかも知れない。
玄関の引戸を開ける、と立派な土間と黒々とした柱、梁−−威厳に満ちたモノトーンの空間が広がっていた。クラシックな空間の端々に、当時の私の田舎には不相応な文化の残骸が見られた。
友人とふたりであちこちの襖や引戸を開け、何があるのだろうかと、緊張と興奮とを感じながら探って行った。
幾つ目かの襖を開けた時である。異様な空間が広がった。
目がその空間を捉えた瞬間に、本能的に危険を感じたと云ったら良いだろうか。何か得体の知れない恐怖が存在しているのを感じたのだ。
十畳ほどの部屋だった。漆喰の壁、畳の床、そして、それらに描かれた不規則な模様。
アラベスクなど装飾的な模様ではなく、何かが這った後のような模様が部屋中に書込まれているのだ。襖に、窓に、床の間の掛け軸にまで、部屋中のあらゆるものがその模様の下敷きになっていた。
私たちは恐怖を抱きながらも、出しゃばる好奇心を抑えられず、脚を前へと進めて行った。
奇妙な模様−−顔を近づけてみると、果たしてそれは文字だった。手書きの文字が、書込まれていたのだ。部屋中に。そしてそれは、いずれも問い掛けだった。
「十年後のあなたは何をしていますか」「今日は何をして遊びましたか」
友人が声に出してそこに書かれているものを読み出した。
「あなたの名前は何ですか」「今日は何時に起きましたか」「駆けっこは速いですか」
最初目についたのは、初めて習う外国語の例文のような内容のものばかりだった。
子どもであった私たちは緊張の中で見つけた簡単な言葉に安堵し、お互いに向かいあって質問を始めた。「朝は何を食べましたか」「好きな食べ物は何ですか」
しかし、それは次第に不気味な感慨へと変わっていった。
「憎い人はいますか」「殺したいと思う人は誰ですか」「誰を呪っていますか」
内容は悪意を帯びたものになっていったのだ。
「先生は嫌いですか」「モノを盗んだ事はありますか」「学校を燃やせますか」
そして、悪意は、奇妙な渦を巻きだす。
「窓の外から覗いているのは誰でしょうか」
「そこには何人いますか」
「明日の午前3時には何が起きるでしょう」
夏の終わりの赤い陽が山の向こうに沈み、暗かった室内が、いっそう暗くなる。
発せられた言葉が空気を重たくした。
「あなたの隣に居るのは誰でしょう」
友人がこの質問をすると、私に向いていた友人の表情が曇ったのが判った。
言葉が出ず、引き攣ったような表情のまま、彼の視線が私の隣に注がれている。
私は恐る恐る視線を横へと移していく。顔は正面を向いたまま。
ゆっくりと、目だけを横へ横へと。
私の視線が捉える。蒼白い何かが、隣に、居る。
と、怖くなった私は友人の手を取って、一目散にその部屋を抜け出して、家を後にした。
外に出ると辺りはすっかり暗くなっていて、どこをどう走ったのか判らないが、どうにかこうにか普段見慣れた家の近くまで来ることができた。

その夜の事である。
件の友人は亡くなってしまった。死因は急性心不全だった。
彼の母親は「突然夜中に叫び声がして、心配になって息子の部屋へ行くと、泡を吹いたまま倒れていました。午前3時頃でした」と話していた。
翌日見た彼の顔は、何かに怯えたような表情だった。

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2012年06月11日

夏の記憶

或る夏の夜の記憶である。
不思議な記憶で、今でも実際のことだったのか、ただの夢なのかわからない。
しかし、ときおりその記憶がフラッシュバックし、私に何かを訴えようとする。
古い小説なら『過去からのメッセージ』とでも云うのだろうか。
自分以外の人間にとってはどうでもいい話だが、ここにそれを記しておこうと思う。

私はパパとママと海へ出かけた。パパがいつも乗っている青い車で。
パパはいつも通り優しかったが、今思えば少し寂しそうだったし、苛立っていたような気もする(もしかしたら時間が経過する中でそんなふうに思うようになっただけかも知れないが)。
ママは座席にはいなかった。いつもなら助手席に座っているのに。
ママがいない事について訊ねると「少し具合が悪いから後ろのトランクで休んでいるんだ」とパパは答えた。
車のラジオからはポップスが流れていた。
誰が歌っているのかは思い出せないが、近所のおねえちゃんが歌っている曲が多かった。
開けた窓からは心地よい風が入ってきて私の髪をなびかせた。
「ママなら大丈夫だ。薬を飲んで眠っているんだ」
「さっきケンカをしたときにケガをして、その時にケチャップがついちゃってね。だからパパもママも服が汚れているんだ」
「海についたら泳ごう。ママも一緒に泳ぐから」
パパは優しくそう語りかけ、何度も煙草に火を点けて、美味しくなさそうに吸った。
パパの口からはエンジェルの頭の上に浮かぶ輪っかのような煙が吐き出された。
私はママの顔が見たくなって、パパに何度も見たいと伝えた。
パパはその都度、私にダメだと言った。
「ママは今、そっとしておいて欲しいんだ」
「海に着いたら、遊んでくれるよ」
外の景色は市街地を抜けて、寂しい風景だった。
「どうして海に行くの?」
「ママが海で泳ぎたいって言ったからさ」
家を出て、一時間ほどが経った頃、海に着いた。
夜の海は人気がなくて、ザワザワと押し寄せる波の音が耳の中に入り込んで、コルジ器の辺りでリフレインした。
パパはママをトランクから下ろすと、お姫様抱っこをして海に入っていった。
ママはぐっすりと眠ったままだった。寝息は波の音にかき消されてわからなかった。
「ママは海が好きなんだ。ここで夜の星が見たいって言ってたんだ」
夜の闇が水平線を侵蝕している。
その中に浮かぶ星々。
ザワザワザワ。ザワザワザワ。ザワザワザワ。ザワザワザワ。ザワザワザワ。
波の音が耳の奥でリフレインし、記憶を侵蝕していく。
ザワザワザワ。ザワザワザワ。ザワザワザワ。ザワザワザワ。
記憶はいつもそこで途切れる。

パパはそれからしばらくしていなくなってしまった。
海水浴の最中に溺れて死んでしまったのだ。
ママは今でも居るが、私との間には不思議な違和感が横たわっている。
posted by flower at 14:13| Comment(0) | TrackBack(0) | novel | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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