2012年06月09日

ユートピア

「宇宙まで何マイル? 世界の果てってどこなんだい?」
「宇宙なんてすぐそこさ。ゆうべ見た夢の中さ」

「金の重さは理不尽過ぎるよ」
「それこそが、相対性理論だろう」

「ユートピアを思いついたんだ、この世界の現実をすべて消しちまえばいいんだ」
「それならば、自分が消えちまうのが手っ取り早い」

「世の中で、もっとも天国に近い存在は酔っ払いだぜ」

「人生がうまくいった試しなどないよ」
「地球の遠心力に振り回されているんじゃないのか」

「アンドロメダよ、我に希望を」
「希望なんてものは、天の川で流れちまった」

「ジャズも、ブルースも、ロックも、クラシックもあらゆる音楽は殺されてしまった。
容疑者は資本主義という大悪党の金と名誉。そして、ちっぽけなプライドだ」

「現代人は、夢の中まで蝕まれてしまった悲しき生き物さ」

「死んだ人の魂が夜空の星になるならば、金星の近くに居るのは政治家だろう」
「だったら、ブラックホールの傍に居るのは、貧乏人だね」

「凡人てのは、形骸化した現実ばかりを取り出したがる」

「この世界の太陽は蝕まれたままではないのだろうか」

世界から殴られ続けた結果、私はマゾヒストになってしまった。
世界よ、もっと私を殴ってくれ。
気が狂うほどに。
明日を見失うほどに。
希望を喪失するほどに。
夢などもう見ることがないように。
大銀河が暗黒に塗り込められてしまうほどに。

「地球の軸が傾いてしまったばっかりに、この世界は正しい循環を失ってしまった」
「最初から正しい循環などなかったんだ。すべては予め決められた、神の御心さ」

「ロマンスを日常に持ち込むなんてのは簡単さ。すべてに文学性をくっつけちまえばいいんだ。デュシャンのサインの如く、あらゆるものにさ。
本には悲しき思い出を、レコードには懐かしい記録を。テーブルには温かい食事の、ベッドには横溢する生命の記憶を、そんなぐあいに」

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2012年06月02日

性座

「あのときのあなたは、もっと熱い口づけでしたわ」と女は言い、
「情熱なんてものは天気のように移ろいやすいんだ」と男は言う。
ふたりは赤い唇を重ね、幸福な刹那を刻んでいく。
スタッカートのような、唇が短い接触を繰り返す。
「あのときのお前は、もっと淫らな口づけだった」と男は言い、
「でしたら、もっと淫らな気持ちにして欲しいわ」と女は言う。
男の唇の間隙から舌が這い出し、女の舌に絡みつく。
男の両手が女の頭部を押さえ、舌で口内を蹂躙する。
「もっと、激しい口づけが欲しいの」と女は言う。
「だったら、もっと淫らな口づけを」と男は言う。
女の指が、男の項を、耳孔を、耳朶を挑発する。
男の口づけがその行為に触発され、激しくなる。
「とても淫らな顔だ」と男が言えば、
「もっと淫らにして」と女が訴える。
男の手が女の乳房の上に置かれる。弾力を確かめるように、幾度も乳房を揉む。
左右の乳房を揉みしだき、硬くなった乳首を摘む。悦びが滲んだ息が、漏れる。
「もっと気持ちよくして欲しいの」と女が言えば、
「だったら、どうして欲しいんだ」と男が訊ねる。
女の手が、男の手を取り上げ、自身の敏感な場所へと導く。
男の手は、ひとつひとつを確かめ、女の呼吸を乱していく。
「ここは、どう」と硬さを蓄えた突起物に触れながら男が問えば、
「とてもいいわ」と愉悦の色に染まった声を漏らして女が答える。
男は、女の肉体を狂わせるように、赤紫色した肉の芽を舌先で転がす。
女は、快感に肉体を振るわせながら、男の頭を自身の秘所へ押付ける。
「とても、気持ちがいいわ」と女が呟き、
「もっと、させてあげるよ」と男が囁く。
男の二本の指が体液に潤った前門を潜り、ザラザラとした内壁に接する。
その感触を楽しむように、初めはゆっくりと動き、次第に加速していく。
「とても濡れているよ」と男が囁き、
「もっと激しく愛して」と女が喘ぐ。
女は男の肉茎を握り、自身の唇へ導く。
果物のような赤い膨らみを、口にする。
「イケないほど硬くなってるわ」と女が言い、
「おまえのはとても濡れている」と男が言う。
ベッドの上に横たわる女。それに正対する男。肉体が重なる。
硬直した肉茎が、体液が溢れる肉の裂け目に飲込まれていく。
「卑猥な顔だ」と男が誹れば、
「強く突いて」と女がねだる。
男の腕が女を強く抱きしめながら、愛に満ちた動きに力を込める。
女の口からは声にならない悦びがこぼれ、男の腕に歯の形を刻む。
「とても幸せよ」と女は囁き、
「幸福な時間だ」と男は頷く。

夏の夜の星座が消えるまで、ふたりは肌を重ね合い、愛の時間を歴史に刻んでいった。
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2012年05月27日

金譚

 いやぁ、景気が良かったことなんかあるんですかね。ワタクシの人生で景気の良かった頃なんか、地平線よりも遥か遠く、土星のワッカぐらい遠いですよ。何万光年も先ですね。ははは。もはや蜃気楼です。もう今では、何処言っても「アキマヘン」「オ上ニ殺サレテシマイマス」そんな言葉ばかりです。ホントに。
 固まり過ぎて右にも左にも回らない首が、ミシミシと締められています。とてもとても、単純に苦しい、なんて軽いモノではございません。ぐうの音も出ない程です。お腹はぐうぐう鳴りっぱなしですが、はははは。
 こう、毎日毎日梅雨の長雨みたいにネチョネチョと湿った中で生きていますと、身体がクサって、気がヘンになっちまいますね。いやぁ、ホントに。もう、好景気なんて言葉、もはや絶滅寸前のニッポニア・ニッポン並に目にすることのないものでやんすね。ははは。景気が悪すぎて生きてるのがメンドウな時代です。タダ生きているだけで、ホケンリョウ、ジュウミンゼイ、ネンキンが法律ってアホみたいなタイギでもっていかれっちまうんだから、ああイヤになっちまいますよ。稼ぎはなくとも国の下支えです。まさに人柱。公僕よりも下ですからね。もはや、生きるキボウはキホウですね、日々の泡。ホントに。プクッ、プクッと水面に浮かんでは消える、悲しきアワですな。人生、ムナシイカギリです。プクッ、プクッと汚泥から沸き上るガスですかね。ああ。
 これが徳川公の時分なら「まぁこんなときは、せめてバカな話でも聞いて」と、憂さのひとつも、ふたつも、みっつも晴らしたもんでしょうねぇ。
 金があれば落語の寄席にでも行きたいものですが、しかしながら、木戸を潜る銭もなしってな具合。ナントモ、ナントモ。
 えー、ナンですが、ここで恥ずかしながら、本日は、ワタクシがお金にまつわる話を「えーでは、毎度のバカバカしい話ではございますが」と、やらさせていただきます。クダラナイ素人話でございますが、皆様の苦労に満ちた日々の、些かでも慰労になればと思います。一応、景気のいい話でございます。何たって、大金が一晩に、ぱぁっとなくなった話ですから。ははは。

 どうでもいい話ですが、ワタクシ、競馬で勝った日にはちょっとだけ好いものを喰うってことにしてるんです。ナニ、そんな大した贅沢ではございません。ビールを飲みながら、ちょっと江戸前のお寿司をつまんで、串カツを数本食べて、仕上げにキレイな女給のいるスナックでゆっくり、ゆっくりとスコッチウィスキーを呑むってな具合なんですが。まぁ、大した額ではございません。大臣やエラいセンセの遊び代の十分の一にもなりません。わかりますか、センセ方、この庶民のツツマシイセイカツが。
 まあまあまあ。えー、そんなわけでワタクシ、その日は競馬で勝ちまして−−。
 そう、その日はハジメっからキましてね。第1レースで4番のマッカナタイヨウと8番ツキノハジメを当てたんですが、ここからホントにツキがキましてね。賭ける馬賭ける馬、全部お金を何倍にもしてくれるんですから。いやぁ、まさにシアワセですよ。
 全部のレースが終わって帰る頃には軍資金が何十倍にもなってましたからね。ボロボロの財布が壊れそうなほどにです。いやぁホントにパンパンで、真っ先に新調したいと思いましたよ。それほどの大金がコロンコロンと転がり込んできましてね。一度も会ったことのない神様に感謝しましたよ。神様はたまにシアワセを与えてくれるんですね。九割はビンボウクジなんですが、世を儚んで死なない程度にシアワセを与えてくれる、生きていればオイシい目に遭えますよ、なんてね。イケね、こんなこと言ってると一割のシアワセもなくなっちまうからね。神様、アリガト。感謝してますよ、ホント。
 ええ、そんな具合でですね、大金を手にして、その日ばかりはいい気になって競馬場を後にしたんです。こんなに勝ったのは久しくなかったんですからね。いつもは素寒ピンでオケラ街道マッシグラですよ。ははは。その日は口笛を吹いてね、コルトレーンさんのマイフェイバリットナントカを。ブルースのレコードなんかの名うてのハモニカ吹きみたいに、ビブラート効かせながら。ワタシの好きなお金を、お馬さんアリガトウ、なんて気持ちでね。古典的な表現ですが、不思議なもんで、気分が良いと口笛が自然に出ちまうもんですね。ホント。
 で、その脚で向かったのは、もちろん寿司屋ですよ。いつもは厚みの全くないサバがのったバッテラとか、おいなりさんとか太巻きとかゲソばっかりですが、もうその日は気分はいいですからね。ガラスケースの中の、竜宮城ではありませんが、鯛やひらめがひしめく、宝石箱の中身のようなネタを見まして、ああ、もう今宵はこれを腹一杯喰ってやろうじゃないかってな具合で、ボロいサイフのヒモを全開まで緩めましてね。ひとまず祝杯に、瓶ビールをグラスに手酌で注いでグイッとやって喉を潤しまして、さぁ、何を食べようかと。
 まずは一カンで千円はする大トロ、これを二カン。そして形のキレイなウニ、柔らかく煮たアワビ、色鮮やかな赤貝、大きな穴子、なんてのを握ってもらいましてね。ほぅ、口の中でトロける、ウニの粒が立ってる、ああアワビのこの優しい歯応えと旨味、コリコリした赤貝、甘辛いタレとマリアージュした炙り穴子。あにはからんや。
 最初は若いオネエちゃんみたいにピチピチの魚や貝の競演に感動しながらつまんでいたんですが、しかし悲しいかな、ネが貧乏人なんでね、後はアジにイワシに、イカ、ハマチ。結局、いつも食べるものになっちまうんです。イヤなもんですよ、貧乏性は。たぶんシャリよりもガリつまんでる方が多いですからね。ははは。
 先ほどはちょっと見栄張って言いましたが、だいたい大トロなんか、トロけるなんつってもアブラっぽいだけで、三カンはダメだね。もう、胸がいっぱいになっちまう。酒だって、なんか重く感じっちまう。マグロはやっぱりヅケかネギトロだね。だいたい上等なものはそんなに食べられない。クドくなっちまうからね。だったらショウガののった青魚ですよ。これが間違いなく酒に合う。ビールにだって、日本酒にだって、ワインにだって合うんだから。ホントですよ。品のあるアブラって云うとなんですが、醤油につけた時にワッと輪が広がる、あのアブラですね、これをショウガがグッと引き締めましてね。ワッと広がって、グッと締める、これですよ。これがアジ、サバ、サンマ、イワシにコハダの醍醐味ですね。庶民の味方ですよ。まぁ、センセ方が行くギンザなんかの高い寿司屋なら勝手が違うんでしょうが、ワタクシ御用達の歌舞伎寿しならこれがイチバンです。なんたって、ゲソが二カンで六十円ですからね。高い魚なんか滅多に出ない。ははは。
 まぁそんなふうにですね、白木のカウンターで寿司をつまんで、酒を呑んでると、目の前のガラスケースに見慣れないものがありましてね。ちょっと赤黒い、魚肉とは違う質感のものが。クジラかとも思ったんですが、ちょっと違うようで、タコ八郎に似たオヤジに訊いたんです、これは何ぞや、と。そうしたら「馬」って云うんです。馬ですよ、馬。ワタクシの冷えきった懐に、ハワイのビーチと、マウイ島とピナツボ火山を運んで来てくれた、あの馬。そのお肉。
 タコ八郎に似たオヤジが続けて云うんですよ。「これは田舎の友人の土産でね。新鮮で馬いんだから、間違いない」ってね。そんなふうに云われたら食べないとオトコがスタルってなもんですよ。
 馬に感謝して、馬を戴く。馬を血肉として、また、勝たしておくれよ、そんなことを思いながら、さっと益子の角皿に盛られて出てきたソイツを箸でつまみ、醤油で食べようとするとオヤジが、これを醤油に溶かしてみなと赤い味噌みたいな、皿の隅っこに漏られたものを指して云う。それでその味噌みたいなヤツを醤油に溶かして、馬肉につけて口に運ぶ、とまず、その味噌みたいのがニンニクが効いていて、芳ばしい香りが口ん中に広がって、そして、肉のコリコリと云うか、柔らかくも歯応えのある食感がうまいのなんのって。いやぁ、馬に掛けたわけではないんですよ、そんなこたぁ、はははは。
 「タテガミなんてのもありますけど」と大将が云うので、それもいただいて。馬完食です。これで精も付いたし、きっと次回も勝つ事間違いなしと思っていたんですが。しかし−−この辺りでツキが切れたようなんですな。いやナニ、そんな店出てすぐにクルマにはねられて、なんてことではなくてですね、運気がまぁ、打ち止めになったような塩梅って云うんですかね。決して、馬が悪いわけではないんですが、競馬で勝った勢いに翳りが出てきたんです。いやぁ、勿論馬はうまかったです。ただ、後で振り返るとそんな気がしたんです。
 寿司屋でそこそこ腹を満たしましてね、勘定を済まして出たんですが、いつもならこの後、角の串カツ屋に真直ぐ入るんですが、ワタクシ、これでも路地裏のブンカジンと呼ばれてまして、まぁ、自称ですがね、ええ、ちょっと久しぶりに金や玉をイジるアレをやろうかと。春の花摘みではございませんよ。いやですねぇ、そんな卑猥なものじゃございません。将棋ですよ、将棋。ワタクシの街にはサロンがありましてね、貧乏人のサロンが。桃色などしていません。どちらかと云えば、ドドメ色です。そこへちょいと顔を出しまして、将棋を指すんです。大衆娯楽ですからね、将棋も。
 で、入ってみるとシローやサリーなんて顔馴染みも居たりするんですが、馴染みは何度もやり過ぎて、手のうちが知れてますから、あんまり面白くない。できれば全然やったことのない人にお相手願いたい、なんて思ってぐるっとサロンの中を見回すと、見たことのない御仁が隅っこで煙草を吹かしていましてね、ちょうど一局終えて休んでる塩梅で。
 初めて見た人だったのでどう声を掛けたものかなって思ったんですが、それよりもちょっと不思議な感じがしたんです。どこがどうってわけでもないんですがね、なんと云いますか、折り紙の奴さんにETを足したような、そうです、あのスピルバーグさんのアレです、指先を伸ばしてきてツンツンするような、あのアレです。
 まぁ、とりあえずと思って「一局、お願いしたいんですが」と声をかけてみたんです。すると「へい」という答えが返ってきて、一局やることになったんですが−−やってみて思ったのが、捉えどころがないんです。
 将棋の手ってのは、何手も先を考えてなんて云いますが、ワタクシも決して弱い方ではないと思っているんですが、この御仁の指し方と云うのが逃げ上手というのか、ふわりと軽く躱すんです。これで逃げ道はないぞ、この一手で決まりだ、えい、なんて駒を置くと、アレ、なんて手が返ってきて、スペインの闘牛みたいにひらりと躱されるんです。なかったはずのところに駒があったり、あるはずのところの駒がなかったり。こちらはアルコールが入ってますから、自分の記憶が問題なのかなと思ってたんですがね。
 一局のつもりだったんですが、結局三局やりまして、全部ワタクシの負けです。酔っているから、と一応言い訳をしてみたんですが、何か違和感のある指し手でしてね、腑に落ちない。しかしまぁ、こちらは競馬の余韻で機嫌はまだ上々でしたし、話すとクセがあって面白い御仁だなと思いまして、ちょっとその後に連れ立って飲み屋に行くことにしたんです。いつもよりもちょいとだけランクの高い、って云っても知れてるんですがね、串カツ屋へ。へへへ。野郎どものお喋りは、まず立ち飲みからって云いますでしょ?あら、知らない? 云うんですよ。何処でかって? まぁ、ナイショです。
 で、店に入りましてあれこれと頼むんですが、そんなに凝ったものはいらないんです。何でもシンプルなものがイチバン。牛と玉ねぎ、レンコン、ししとう、そんなのがいいんです。紅ショウガなんてのも結構オツなもんですよ。で、その揚げたてのアツアツを、指の先で串を持って、銀色の容器に入ったソースにジュッと漬けましてね、ソースがしたたるそれを口の端でカジる、と、サクッとした食感の後に、じわぁっとソースと、揚げられて甘味を増した素材とのハーモニーが広がりましてね。まぁ、音楽に例えますと、ベニー・モーレですね。あんな具合に、豊かで華麗な味のハーモニーが広がるんですよ。ナント、ご存知ない? あのキューバの至宝を。キューバはベースボールやバレーボールしかご存知ない? ああ、あとはゲバラとカストロ、そして、葉巻にラム。ああ、そうですね。間違いないです。
 まぁ、そんなことは置いておきまして、先ほど将棋を指した御仁と串カツをつまみながらビールをクイッとやりましてね、あれこれと話してたんです。最初は世間話ですね、どうでも良いような。国の政治の話だとか、知事さんの話だとか、あとテレビに出てるナントカって人のスキャンダルに、健康法。やいのやいのと話して、野球の話になって。いやぁ、今年はジャイアンツはイマイチですな、とか、タイガースのあの選手がこの前この辺で暴れてましてね、とかまぁ、どうでも良い話です。そんな話をしてますと、よくある話題ですが、お仕事は何を、となったんです。
 ワタクシですか? 申し遅れましてナンですが、一応鍼灸師でございます。お店など持っておりません。お呼びがかかれば西へ東へ北へ南へ、上へ下へと行く『お呼ばれ針師』ですが、まぁ、そんなにお金にはなりません。相手も貧乏人ばかりですからね。お代をお酒でいただいたり、お米でいただくこともあります。先日は山菜と冬虫夏草なんてものいただきました。しかし、お金持ちには成れないですね、はははは。
 で、そちらの御仁はと云いますと、人が居るところで話すのは気が引ける、と云うんです。何かアヤシいお仕事なんだな、と思ったんですが、では河岸を変えましてとなりまして、ちょっとしたスナックへ行きましてね。マチコってママの店なんですが。そこは客も少ないですし、音楽が大きいから、話を聞かれる心配もなさそうだし大丈夫だと判ると、御仁は話しだしたんです。

 「オレは昔、ユイチって呼ばれてましてね。もう、今では昔の話ですが。
 仕事って云いますと、ちょっと言い難いんですが」とユイチさんは右手の人差し指を鉤のように曲げまして、
 「これです」とクイクイと魚でも引っ掛けた釣り針みたいな動きをしたんです。
 「なるほど。釣り竿屋で」
 なんてワタクシが云いますと、ノンノンと首を横に振る。
 「スのつく仕事です」
 スが付いて、指を曲げる仕事、なんて考えましても鈍臭いワタクシの頭に浮かぶものは寿司屋ぐらいなもんです。さっき行きましたからね。果たして、それも違うと云う。まして水道屋でも、相撲取でもない。
 で、何ですか、と訊けば「スリ」と小さな声で答えたんです。
 「スリ!」ワタクシが大きな声を挙げると、人差し指を唇に当てまして、ワタクシを制しましてね、「ダメですよ」と小声で力強く云うんです。
 それまでと打って変わってとても鋭い目でこちらを睨みまして。何と云いましょうか、そのスジの方の見せる目つきですね、アレですよ。それでこちらをクワッと睨みつけましてね。さすがに恐れ入りましたよ。
 見た目は、折り紙の奴さんにETを足したような、と先ほど申しましたが、話を聞けば年は還暦くらいでしょうかね。しかし、歳のわりにはとても血色の良い肌なんです。役者ですとか歌手みたいに芸の道で生きている人が緊張感によって若さを保っていると云いましょうか、裏街道ではあるけれども、人生の疲弊をうまく乗り越えてきたようなふうでございますな。そんな御仁の睨みつける眼力の圧力、驚きと云うよりザッと怜悧な匕首を出された感じでワタクシ、一瞬黙ってしまいました。
 ですが、まぁ、お酒の場に来てますんでね、話さないことにはどうにも気まずいですから当たり障りのない話をしようかと思ったんですが、そんなことがあった後だとちょっと話しにくい。そこで、えいっと思いまして、
 「お仕事でイチバンの思い出って何でしょうか」と訊いてみたんです。特殊なお仕事ですからね。何か武勇伝のひとつくらいあるだろうと思いまして。
 そうしますと御仁、ちょっと考えまして、「ふたつ、あるんです」と云う。
 少しばかり嬉しげと云いますか、やはり、専門職ですから、それなりに誇りを持ってるようで自慢をしたいんでしょうかね。軽く促しただけで、どう話そうかと考えているふうで、唇をペロッと舐めまして。
 それで御仁、ロックにしたスコッチウイスキーで口の中をちょいと湿らせますと、話し始めたんです。
 「ひとつ目は、これはスリの仕事じゃなかったんですが、ちょいと手の込んだ仕事に乗っかったと云いますか、偶然うまい具合に事が進みまして大金が入ったと云う仕事で、まぁ当時は新聞にも載ったんで知っている人も多い事件なんですがね」と軽快にはなしだしまして
 「たまたま、金になりそうな話を小耳に挟んだんです。もちろん、そんなことは表に出る事はありません。そう云う話は世の中の裏側で語られるものですからーーそれを耳にしたのは、塀の向こう側でした。
 塀の向こう側−−そうです、刑務所に入っていましてね。そのときに耳にしたんです。いやぁ、本職以外でドジを踏みましてね、ちょっと別稼業をしていたんですが、その仕事の相棒に逃げられてハメられた、ということがありまして、まぁ、何年かクサい飯を食べてた事があるんです。そんなこともありまして、悪い事は一人でやるもんだなと思っていますが、まぁ、置いておきまして。
 間もなくアタシの刑期が終わる一年前頃にですね、当時、刑務所の中で有名大学の入試の問題用紙が印刷されていたんですが、そうです、あの事件です。
 問題用紙が、入試前に漏洩して、それに関わったと思われる人が不自然な最期を遂げたと云う、その事件です。
 アタシは別にそれに関わっていたわけではないんですが、たまたま耳にしましてね。まぁ、刑務所の外にも情報網を持っていたんですが、どうもそういうことをしている人たちがこの刑務所にいると。
 アタシは周囲の動きに気を配りながらそうした動きを探っていったんです。そしてようやくその連中を突き止めたんです。
 しかし、それには決して加わることなく、彼らの動きについて情報を集めたんです。誰が、どうやって外部に渡しているのか、渡す手段は何なのか、と云った事を。今年うまくいけば、たぶん翌年も同じような段取りで行われるだろうと踏んで、その首尾をできるだけ細かく観察して情報を集めたんです。
 するとですね、意外にも単純なダンドリなんですよ。外部の者と連絡を取って決まった日時に塀の外の辺りに受け取りの人が待機していて−−ムショは自由時間が限られていますから、自由な時間−−休憩時間にですね、塀の外からサッカーボールが放り込まれて、そのボールの中に問題用紙を挟んで、塀の外へ返してやる、向こう側でボールを拾うというダンドリなんです。
 実際にアタシ、この目で確認したんです。ええ、この時間に誰がどう動いているかというのも、この目で。それを見て、アタシ、これならいけると思いましてね。
 それから一年後、刑期が終えていたアタシは、その刑務所の塀の外で、この辺りに受け取るヤツらは来るだろうと踏んで待機したんです。詳しい日時は判りませんが、去年の塩梅だとだいたいこれくらいの頃だろうと予測をたてまして。
 そうしますと、受取り手らしき男が現れたんです。見るからに、ああ、と思うようなヤツでした。ボールを介してのやり取りというのは前の年は三回行われるんですが、最初は様子見でしっかりとどういう人が取りにくるのかと思って見ていたんですが、やはりそいつが受け取ったんです。こちらは塀の中の様子を実際に知っていますから、この時間に中ではこんなことが行われていて、そろそろ動き出すぞ、なんて思いながら見てますと、案の定、行われたんです。
 塀の上を、ぽーんとサッカーボールが越えて、ぽーんと返ってきて、近くにいたその男がそれを取りまして、ボールごと持って走って行ったんです。
 どれくらい先ですかね、近くに仲間がいたと思うんですが、ボールを拾った男がしばらく駆けて行きまして、200メートルほど先の角を曲がったんです。
 アタシね、それを見て笑いが出ましたよ。それだけの距離を一人の男しかいないのであれば、大丈夫だと。二回目を狙う事にしました。三回目はどうなるかわかりませんから、やるなら二回目だと前から決めていたんですが。
 二回目は、それから三日後でした。少し早い目の時間にそこを通りますと、やはり前回見たような男が立っているんです。安っぽい背広の、パンチパーマの男が。
 アタシは、それを確認しますと、男の逃走経路の辺りに待機しましてね。ちょうど公衆電話がありまして、そこで電話を掛けているような具合でですね、男の様子を横目で観察していたんです。
 で、時間になる。
 と、サッカーボールがぽーんとまた塀の上を越えまして、道路に転がる。パンチの男が拾う、こちらへ駆けてくる。
 と云う時にですね、アタシ、ボールを持って駆けてくる男に、公衆電話から前方を確認せずに出ましたと云う寸法でぶつかったんです。
 男はもちろん勢いがついていますから、どっかーん、どってーんとなりますよね。ボールは転々とする。
 アタシは、「いや、これはすいません」と云ってボールを拾い、渡す。
 その時−−ボールに切れ込みがしてあって、そこに例のモノが挟まっていたんですが−−それをササッと換えまして、パンチ野郎に渡したんです。一応前年の問題用紙を挟みましてね。パッと見ても判りませんからね、書かれている問題なんてのは。
 どのボールを拾った時に気付いたんですが、サッカーボールは二重になってまして、表面にサッカーボールの生地を被せたものでした。
 男は急いでますし、そんな事をされるだろうとは思ってもいませんから−−寧ろ、悪い事をしていると云う負い目もあり、顔を見られたくもなかったのでしょう、ボールを手にするなりサッと走って路地裏に消えていったんです。アタシの顔も確認せずに。
 ご存知のように、この事件ではその後関係者が死んでいますが、この時の男も死んだんではないでしょうか。そう思うと気の毒ですが。
 さてと、問題用紙です。これは持っているだけでは何の得にもなりませんから。別にアタシが最高学府の受験するわけでもありませんので、売って換金したい。で、この問題用紙を誰に売りつけようかと考えたんですが、ルートが限られておりまして、既存のルートでは意味がない。寧ろ、大元を強請った方が金に成ると踏んだんです。
 大元? 刑務所ですよ。
 刑務所の所長に、買い取りを要求したんです。それまでも予備校と癒着しているとか、情報を流しているなどと疑われていましたが−−予備校が近年の問題の傾向を分析した結果だろう、と言い張っていましたが−−全体としてはまだ謎のままだったんですね。それで、マスコミに送りつけて、大っぴらにしてやるぞと。
 出世が命の公務員ですから、是非買い取らせて下さい、と向こうから頭を下げてきましてね。妥当な金額で譲ってやりましたよ。もちろん、その後マスコミにも渡しましたがね。たまたま拾ったスクープですよと。こちらもそれなりの金額で。
 アタシの存在を知っている人はいないんですから、結局元々やっていた方たちの何人かが目をつけられたり、本体に捜査が及ぶのを警戒して、口封じに消されたりしたんでしょうが、アタシには何も問題はなかったですがね。
 お金の受け取りですか?
 簡単ですよ、本職がスリなんですから、その辺りはダンドリよいんです。第三者にお金を受け取ってもらい、そいつから奪いました」不景気な世の中ですから、何にも考えずにお金で動いてくれる人もいましたからね。
 結局はアタシの存在は表に出る事はなかったのです」
 御仁はそう話すと機嫌がかなり良かったのだろう、クイッとスコッチウイスキーを飲み干した。
 「とても素晴らしい話ですね」
 ワタクシはこの御仁の話に感心しまして、空いたグラスにどぼどぼとスコッチウイスキーを足しまして、敬意を表しました。ワルではありますが、何と云いましょうか、心地よいワルなハナシ。漢が羨ましがるような話ですからね。
 御仁もまんざらでもないようで、何度も頷きながら気持ち良さそうにグラスを傾けます。
 「ヨイチさんは簡単そうに話をされていますが、これは、まぁ、組織を相手にしているわけですから、ちょっとドジを踏んだだけで、もう、終わりですからね」
 ワタクシが、その武勇を讃えますと、御仁の表情は、文字通り喜色満面。
 「そうです、そうです」と、「実際には、掌には汗がびっしょりでしたよ。素早くボールから問題用紙を引き抜いて、取り替える辺りはとくに。時間にして、数秒とないんですから」
 最前ワタクシを牽制した鋭い目は、丸みを帯びまして、若干目尻は垂れております。
 それで「良い話をありがとうございます」なんて返しますと、
 「もうひとつありますから、たぶんこっちの方がアタシの仕事の中で最も、面白い話です」御仁はそう云って、背筋を反らしまして、エヘンと咳払いをひとつ。
 「これは先ほどの、刑務所に入る前の話です。
 アタシがまだ、三十路半ばほどの話です。
 アタシ、当時、まぁ、このウデを自慢していたわけではないんですが、そう云った稼業の人たちから『疾風のヨイチ』とか『江戸前』なんて云われてましてね。江戸っ子ってのは宵越しには金が無くなっていますからね、ヨイチと擦れ違うと金が無くなっている、だから『ヨイ越しに金はナシ』なんてのと掛けて、うまい事言いやがるなって思いましたが。
 終いには『神様』なんて噂する輩まで出てきまして。その世界では一目も二目も置かれていましたね。
 その頃の、スリの世界ってのは、シマが決まってましてね。結構面倒なんですが、その世界にも仁義って云いますか、現代で云う、そうそうヒエラルキーですね。その、ヒエラルキーの頂点にいる人間が、まぁ、采配するんですが。自分は仕事をしないんですが、金は入ってくるって仕組みを作ってまして、まず身内が仕事をしやすいように、良い場所を押さえてって、その次にその取り巻き、で三下どもがその次にってな具合で、良いシマをどんどん取っていっちまう。だから、縁のない若手なんてのは行ける場所が限られてるんです。
 アタシは、そう云ったグループに所属せずに一匹でやってましたから敵が多ございましてね。入るのにはお金が要る上に、上納金もいる。他にもアホみたいな制度がたくさんありましてね。そんなアホみたいな組織が何の役に立つのかって思って、意地を張るようにしてやっていましたから、何度も目をつけられて、面倒な事も多かったんです。
 しかし、どんな世界にも神様はいるもんで、ある祭りの夜にですね、そのグループのヤツらが警察に捕まったんです。
 結構捕まりましたね、ええ。最初に駆出しのヤツがとっつかまりまして、そいつが口を割ったんでしょうね、幹部連中がごっそりつかまりまして。別にアタシがタレ込んだんではないんですが、願ったり叶ったりですよ。神様はよく見ている。そんなふうにして、思わぬところから良い方に転んで行ったんです。棚から牡丹餅ですね、まさに。
 で、この機会にうまいことやってしまおうと思いまして、そいつらのシマに割り込んだんです。向こうは勢いがありませんから、わっと入ってやりましたよ。締まりのない虎穴に、グワンと突っ込んでね。へへへ。
 アタシが目をつけましたのが、電車でございます。
 電車と云うのは、人が常に居る上に、それなりに逃げ場もございますから、とても仕事がしやすいんですよ。
 まあ、大きな駅ってのもあるんですが、さすがに毎日駅で仕事ををしてますとメンが割れますからね。存在自体が怪しまれる。終電時間の泥酔客を相手にした介抱泥棒なんてのは、毎度やっていると駅利用者に覚えられてしまう可能性もあります。
 その点、電車でしたら、毎日乗っていても、移動中だと思われますからね。通勤、帰宅で混む時間はスリに取ってはまさにうってつけの環境でございました。適度に混んでいればちょっと触れられただけではわかりませんし、多少不自然な動きであっても姿勢が崩れてしまいまして、御カンベン下さい、てな塩梅でね。
 そして、アタシね、背はさほど高くはないんですけども、腕はちょっと長いんです。子どもの頃に木の高いところにある果実や、冬なら干し柿ですね、あれを盗ったりしたんですが、頑張って腕を伸ばしていたら、思いの外、伸びたんですよ。ですので、アタシの頭の位置がちょうど財布に近い辺りにありまして、腕を伸ばせばいいという塩梅で仕事がしやすかったんです。
 あと、こちらの仕事を始める前にですね、短い間ですが、手品師の付き人をしていたことがありまして、指先の訓練を毎日しましてね」
 御仁はそう云うと、右の手をワタクシの眼前で擦りだし、何もない空間をつまんだんです。ちょうど手遊びの狐の顔のような、そんな塩梅です。
 すると、何もないはずのところからひょいと将棋の駒が出ましてね。金がひとつ、ふたつと。それを別の手でやる。すると今度は銀が二枚。
 驚くワタクシを笑いながら御仁は云うんです。
 「ですから、先ほどの将棋も、タネも、仕掛けも、あったんです」と。そして、また、話を始めましてね。
 「手品師の師匠はオンナ遊びが好きでしてね、まあ芸人ですから何事も仕事に結びついたら良かったんですが、彼に限ってはオンナ遊びは大して身に成りませんでした。仕事で稼いだお金が蝶々のようにひらひらと飛んでいく。遊びほうけて練習も疎かになれば、仕事でたびたび失敗する、なんてことで次第にどうにもならなくなっていきまして。
 結局、その方は何人かいた愛人のうちの最も別嬪と逃げましてね。どこへ行ったのか判りませんが、何の連絡も取れずで、アタシも往生しました。
 アタシは基本をいくつか教えてもらっただけで、人前で披露してお金を取れる技なんかありませんから、別な仕事を探しましてね。いろいろやりましたが、どうも何かが合わなくて長続きしない。
 で、たまたま、酔っ払った若いヤツが臀のポケットから財布がはみ出しているのを見まして、これはイケるんじゃないのかと、サッと抜いたのがこの稼業の始まりです。
 いろいろ研究しましたが、人間と云うのは案外無神経なもので、外に気をとられていれば、何かが触れても気付かないものです。とくに目が情報を拾っている時、耳が外界の音に反応している時なんか。
 先ほどの将棋はですね、あなたが次の一手を思案しながら、狙っている升目に目を落としているスキにチョチョっとやったんです。
 まあ、話を戻しますが、アタシはそんなわけで電車の中で仕事をすることにしたんですが、一応シマがありまして、国鉄S線のK駅からO駅までの20分ほどの区間がアタシの仕事場でした。だいたい乗る前から目星は付けておくもんですが、途中で対象を変更する事もありました。手持ちの荷物が多いものほど注意はあちこちに向かいますから、荷物を多く持っている輩、宴会なんかの帰りで機嫌のいい方たち、指を絡め合ってうっとりしているアベックなんかがカモでした。いろいろな方からいただきましたが、アタシは金のなさそうな人、とくにご老人にはいたしませんでした。苦労をしてきた方のお金は重みが違いますからね。ですから、逆に見るからにお金を持ってそうな、お金の臭いがプンプンする方からはタンマリいただきましたよ。また、そう云う輩ほど不用心と云いますか、大事に思っていないんでしょうね、スキが多いんです。財布でなくても、金に成りそうなものはいろいろいただきましたよ。まだ皆がモノを欲している時代でしたからね。とくにカメラや時計なんかが金にしやすいものでしたけれでも。
 で、まあそんな塩梅に自分で規則を決めまして、仕事をしていたんですが、最もこだわったのは深追いをしないということでした。あんまり執拗に追いかけますと、大概ロクな目に遭いませんから、15分でダメだったら諦めることにしたんです。
 今ではもう、そんな稼業を止めてますが、長い事やってましたね。20年はしてましたでしょうか。その間、一度もアタシは捕まった事がなかったんです。運もよかったんでしょうね。オマワリに追われた事もありましたが、偶然にも大きな事件の指名手配犯が駅にいて、そっちを追いかけて行ったとかですね、逃げた先で警官と学生デモ隊がぶつかっていて、その混乱にまぎれて、なんてこともありました。
 捕まった事がないッてんで終いには『神様』なんて云われましてね。自分でも知らないうちにオヒレハヒレがついて話が広がりまして。
 そうしましたら、そんな噂を聞いた同業者から話が持ち込まれたんです。
 『神様、ひとつ仕事をやってくれないか』てね。
 話を聞いてみると、ある金持ちそうなヤツがいて、そいつの持つ金の万年筆を奪ってくれないかと云う。
 その話を持ってきたヤツもそこそこの腕なんだけれども、どうにもスキがない。長い事ガンを付けているが、全く盗れる機会が訪れなかったと云う。胸のポケットに挿しているだけだから、そんなに難しいものでもないだろうと思うのだが、『全然スキを見せないんだ』と云う。
 ドイツ製のもので、キャップに宝石が散りばめられた、純金製の万年筆−−。その社長が自慢しているのを耳にしたと云うんです。
 それを聞きまして、アタシもその稼業では自信を持っていましたから、その話を受けたんです。
 そいつのシマは、アタシのシマから結構離れたところでして、まずはどういう街を走っているのか、どういう人が多いのか調べました。万が一、何かあった場合の逃走経路も確保しておかなければなりませんから。
 まぁ、戦後の復興期で、中小企業の多い街だったんですが、成金になったものも多くてですね、件の万年筆を持った社長と云うのも、成金でした。
 ですから、自分の成功を自慢したかったのでしょう。高そうな服や帽子、クラバッテ−−ああ、ネクタイです−−をしてましてね、成金のイヤミ臭が漂っている。見ているだけで嫌になるような輩でしたね。何もクルマにでも乗れば良いだろうに、わざわざ人が混む電車に乗るんですからね。そしてワザと貧乏人の前で『エヘン』なんて咳払いをして、席を譲るよう催促するんですよ。
 見ていて、こいつはヤキを入れてやらねば、と少々義憤に駆られましてね。
 まぁ、そんなわけで、イザ行動に出たんですが、やはりガードが堅いんですよ。ジャケット外側の胸のポケットに挿してあるだけなので、何かの拍子に、ひょいと戴けそうなんですが、向こうも値の張るものだったものだけにそこは気を緩めないと云いましょうか、気は緩めてもそこだけ守るという塩梅ですね。
 だいたい午前10時過ぎの電車でして、社長出勤なんでしょうなぁ、新聞なんか広げて、悠々としている。そして、ときおりその万年筆を取り出して、うっとりと眺めるんです。ナイトクラブで女性の脚をしげしげと見るような具合にですね。
 で、アタシ、ずっとこのオトコを見ていましたが、初日は様子見だったんですが、二日目、三日目、全然機会が訪れずダメでしたね。
 雨が降ったら荷物が増えて気が散漫になるかなとも思いましたが、四日目雨が降るも変わらず。
 電車を降りてつけようかとも思いましたが、一応、『神様』と呼ばれている手前、綺麗に、華麗な仕事をしたいと云う、まぁショウモナイ見栄もありましてね。
 強盗? それはスリ稼業の人から云えば、何とも品のない仕事でございます。
 相手が知らないうちに、事が済んでいると云うのが、この稼業の肝要にして、華なんですから。
 見栄もありますが、このオトコについてばかりではお金にならない。まぁ、アタシも生活の為に貯蓄はしていたんですが、大して金にもならないような仕事に時間をとられるのはカンベンですからね。一週間、と期限を決めていたんですが、半分は過ぎてしまった。そして、残り三日でうまくいきそうな気配もない。
 と、なっては打つ手もないのですが、何せ、アタシの腕前を見込んでのお願いですから、今更ダメだったと云うわけにもいかない。ああ、面倒なことを受けてしまったな、なんて思っていたんですが。
 ふと、思いついたんです。万年筆をすり替えたら良いんじゃないかと」
 御仁はそこまで話して疲れたのか、ほう、と一息つくと、スコッチをぐいぐいっとやりましてね。喉を潤わせて、また始めたんです。
 「同じような万年筆を作って、すっと入れ替える。
 手品ではよくある手なんですが、見ているものが別のモノにすり替わって、本物は違うところへ、と云うあれですね。それをやろうとしたんですが−−。
 実際同じような品を用意したんです。まぁ、それほど細かく実物を見たわけではないですから、一瞬間だけそれっぽく見えるようなものですね。金色の万年筆を。
 で、電車で、そのオトコと隣り合わせになるようにしまして、どのタイミングでやろうかと画策したんですが、なかなかその機会が訪れない。
 今か、今かと、緊張感の中で機会を待ったんですが、ダメでした。初めは帰りの電車で寝ているときにでも狙ったらと云う考えもなくはなかったのですが、帰りはいつもタクシーで帰るときた。一杯やってすすっとタクシーで、なんです。
 で、アタシ、これは困ったなと思いまして、悩んだんです」
 と、ここで御仁、こちらを改めて見つめて、
「さて、アタシ、結局どうしたと思いますか?」と聞いてきたんです。
 あなたなら、どうしますか?
 ワタクシは、その用意した万年筆を依頼者に渡しちまって知らぬ顔ってのを考えたんですが、御仁は横に首を振る。そして、笑ってこう言ったんです。
 「結局ですね、買ったんですよ。そのオトコから、万年筆を。
 正確には、舎弟みたいなヤツに買うように命じたんです。ナンボ云われたって良い。ただ、何としても、万年筆を売ってもらえと。
 で、ですね、いよいよ最後の日。
 アタシは、舎弟のミノって云うヤツを使いまして、オトコに向かわせたんです。ミノってヤツはちょいと精悍な顔でしてね。話すと、若干貫禄がある。
 こいつにですな、駆出しの骨董商だと云え値打ちが判るような芝居をしろ、と指示したんです。
 ミノは、オトコの万年筆を見るなり、『いやっ、これはすごい逸品。なんと、こんなものが。これはドイツ製の万年筆ではありませぬか』『世界に一本しかない万年筆ですか』『何ともスバラしい』と散々持ち上げさせまして、『できればお譲り頂きたい』と言ったんです。『後生です。実は、これから婚約者の実家に挨拶に行くのですが、生憎、急ぐあまり、大したものを持たずに来てしまいまして』『駆出しの骨董商ですが、せめて何か一つでも一流の品を身に付けていれば、先方への見栄も張れると云うもの』などと、申しまして、どうにかお金を出して譲って戴く事に成功したのです」
 御仁は再度こちらを向いて、これで終わりではありません、と云って笑った。
 「この後、オトコがミノから受け取った大金は、仕舞った財布ごとアタシがいただきました」
 御仁の顔には痛快なことをやってのけた時に浮かぶ、してっやたりの表情。当然、笑い声も大きくなります。
 ワタクシ、成る程と感心しましたよ。
 やりますなぁ、やりますなぁと賛嘆の言葉が知らずに漏れました。
 「これがアタシの生涯で思い出に残る仕事でございました」
 嬉しそうにスコッチを呑む御仁の顔がカッコ良く見えましたね。ええ。

 まぁ、お話はいかがだったでしょうか。
 ナニ、そんなに面白くもなかった? 大金が一晩のうちに消えていない? ははは、そうでございますね。ええ。
 えー、この後にオチがありまして。ではそれを。

 酒の席で愉快な話が出まして、気分は上々ですから、この後にですね景気よく、べっぴんのいるナイトクラブへ行こうと提案したんでございますが、御仁、アタシはもうそんなに若くないからオンナに興味がない、と仰る。
 そして、だったらアタシの家で呑みましょう、なんてことを仰りましてね、御仁の家で呑む事になったんでございます。
 そこそこ酔っていますからタクシーに乗りましてね。もちろんワタクシの知らない町です。そこの、どこかの道をうねうねと曲がりまして。御仁が、ここです、と云った物件は、侘しい住まいだろうと予想していたんですが、その予想に反しまして、ワタクシが住んでいるより何倍も立派なメゾンでしてね。スリ稼業は儲かるんだなと思いました。そのときは。
 中に入ると、猫足のテーブルだとか、真っ赤なビロード地の椅子だとか、貫禄のある男性のポートレイトなんかがあったりしまして。へぇー、なんて感心してますと、洋酒が出されましてね。ヘネシーウイスキーを「まずは、キでおやりなさい」と。
 ひとまず乾杯をしまして、「今日は楽しい出会いでしたね」なんて御仁が云いながら、続けて二杯三杯と杯を重ねます。
 「本当にステキな夜ですね」
 「泊まっていきなさい」
 気付くと、御仁のボディタッチが増えてきましてね。吸い付くような手つきで。
 先方はスリですから、ワタクシ、一応用心しないといけないな、とは思いましたが、最初はそんなふうには思っていなかったんです。まずは財布を用心しないと、相手は元とは云えスリですから、とそっちばかりを気にしていたんです。
 しかし、どうも狙っているのはそっちではないような気配になってきまして、手が次第に下半身へと伸びてきたんです。
 「ユイチさん、いけません。ワタクシ、そのような趣味はありませんから」と強く訴えたのですが、御仁は「大丈夫」と云うばかり。
 そして、この身体のどこにそんな力があるのかと云うような力と迫力で、顔が、手が迫ってきまして。
 ああ、これではこの清い身体が汚れてしまうと諦めが一瞬胸裡に浮かんで来たまさにそのとき−−建物が激しく揺れたんでございます。
 地震でございます。震度は4くらいだったでしょうか。ガタガタとあちこちが激しく揺れましてね。
 そんな、都合の良い、とお思いでしょうが、あったものはしょうがない。
 と云いますか、まさに地獄に仏。この瞬間を逸しては逃げられない、ワタクシそう思いまして、必死で走り出しました。
 揺れが収まった一瞬に、転げるようにして、ばっさばっさと目に入ったもの、手の届くものを掴んでは投げまして−−昔話の『三枚のお札』−−あんな感じでございます。玄関まで行きますと靴を掴んで、履かずに逃げました。
 道へ出ましたが、当然後ろからは追いかけてくる気配。夜道には、ワタクシの逃げる足音と、御仁のタンタンタンと走ってくる足音が不規則に重なって響いております。
 ああ早く、早く、早く、と大通りへ出ましてタクシーを拾おうと思うんですが、なかなか来ない。しかし、音は近づいてくる。身に迫る危険。ああ、ヤツがあそこまで、と蒼くなっていますと、神様はいたんです。クモの糸ように、そっと糸を垂らされたんでしょうね。希望の灯火のような灯りが近づいてきまして、「ああ、タクシー」と、どれほど感謝した事か。そのタクシーでどうにか逃げることができました。
 車内でひとまず落着いて、上着の内ポケットに手を入れて煙草を取り出そうとして気付いたんですが、財布がない。あれ、確かに大金を入れた財布が、と全身を確認しましたが、ない。
 やはり、元とは云えスリだったんです。しかし、あの大金の入った財布を、いつの間に盗ったのだろうと思い出してみたんですが−−あの時か、地震で意識がぱっとよそに向かったあの瞬間に。なるほど。ああ悔しい。
 後日、警察に行きましてね、この近所の家で飲んでるときにイタズラされそうになり逃げたんですが、その際に財布を奪われた、と被害届を出したんですが、ワタクシ、酔っていたためその家がどこか皆目見当がつきませんでね。果たして見つかる事もなく。無念。
 ああ、競馬で当てた大金は、かくして一夜のうちにつゆと消え、でございます。

 いかがでしたでしょうか。
 ナニ、品がない? ハハハ、当然ですよ。金にまつわる話なんて、そんなもんでございましょう。はははは。

 オソマツ。
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2012年05月03日

どうでもいい話

どうでもいい話である。

K市に住む知人・Yの話である。
Yは若い頃の田宮二郎に似たなかなかなハンサムな男だった。何かの折に彼と話していると、それを目にした女性たちから「あのオトコマエな彼、今度紹介していただけない?」と後日言われたことが度々あった。
比較的殿方にオクテな私の周りの女性たちでさえ、そんな様子であるのだから、街を歩けば声を掛けられることも少なくなかった。或るときは通り過ぎた高級そうなクルマが停まり、ウィンドウから顔を出したマダムにドライブに誘われ、また或るときなどは、傘がなく、雨に打たれながら信号待ちをしていると、不意に頭上に傘が現れ、「よければ一緒に信号を渡っていただけませんか」と妙齢の女性に声を掛けられたのだと云う。
ちなみにYは180ほどの背丈なうえに、学生時代にバスケットで鍛えたと云うスリムなラインで、甘いマスクに性的魅力に溢れた肉体という彼の存在は、女性たちを刺激して止まなかったのだろう。プレイボーイではなかったが、身持ちが堅すぎるほどでもなく、たまに訪れるアバンチュールを「あれもセッションだからね」とかつては歓迎しているようだった。

そんな彼が、家の近所を歩いていると、よく視線が合う女性がいたそうだ。
近所のスーパーでの買い物や本屋での立ち読み、或いは喫茶店でコーヒーを飲んでいるときなどに何の気なしに窓の向こう側に目を遣ると、女の潤んだ視線が−−と云った塩梅にその女性は見ている。
目が遭うとしばらくYを見つめているが、子連れであったために、子どもに促されるようにして場を去る。髪を金色に染め、一見派手だが、どこか清楚な雰囲気も持ち合わせた、色気漂う美人だった。
追いかけられている、というわけでもなかったが、何かの折々で、ふと目を遣った先に件の女性が居て、視線をこちらに向けている、という状況が頻繁にあったそうだ。

或る夏の日の午後、Y宅のベルが鳴った。
当時、Yは高くも安くもないアパートで一人暮らしをしていたのだが、部屋のドアを開けると件の女性が立っていた。普段とは違った、スーツ姿である。
女はそこがYの家だとは知らなかったようで、おおいに驚いていたそうだ。
「何かようですか」とYが訊ねる。顔は知っているが、言葉を交わすのは初めてである。緊張から口調はいささか堅い。
女は少し言い淀むようにして「国勢調査の」と言って封筒を出した。
モジモジという表現が相応しい、いじらしさが滲んだ動きで、かわいいと思った。
顔は下を向いている。差し出された封筒を受け取ろうとYが手を伸ばす−−と女性の手が、Yの手を握りしめた。
下を向いていた顔が前を向き、視線がYを捉える。
Yは困惑したが、女性の色気を感じていないわけではなかった。寧ろ、もしかしたら、ステキなことが−−と下心を持ってしまった。
Yは「たまに街で僕を見てますよね」と訊く。女性は恥ずかしげに「はい」と頷く。
「いつもは子どもがいるので、遠くから見ているばかりでしたが、いつか機会があれば声をかけたいと思っていました」頬に赤みがさしている。
尚も「いつの日か、あなたと−−」と続けて何かを言おうとする女性の唇。
と、そこでYはそれを自身の唇で塞いだ。そして、そのまましばらくの間、濃厚な口づけが、玄関と云う狭い空間で展開された。
レディとの逢瀬に慣れたYの技術もあったが、女性の情熱的な愛撫が互いの気持ちを熱くさせ、もっと先へ進まなければという雰囲気になり、女性を部屋の中に入れた。
Yに想いを寄せていたというだけあって、女性は恥じらいを見せながらも、服を一枚ずつ脱いでいき、ブラジャーを外し、可憐な花模様のショーツ姿になった。アバラが見えるほどの細身ではあるが、臀と胸は豊かだった。三十路に差し掛かった、女として熟れ始めた色香だった。
女性は言う「あなたとこうなることを、想像していました」と。
互いに最後の一枚を身に付けた姿態で濃厚な口づけを交わしながら、肉体を愛撫し合う。
既に感度が最高潮の女性は、肌を触れられるだけで息を荒げ、胸を触れば艶かしい声が漏れた。況や、敏感な部分をや、である。指が潤った突起に触れると、全身が震えた。
梅雨どきの紫陽花のように、濡れた花びらを前にしては、Yも後先を考える余裕などなかった。

その後、女性はYの家へやってくるようになったそうだ。聞けば、亭主は長距離トラックの運転手のために不在がちだった。子どもを保育園にやると、Yの家で昼のひとときを裸でふたり楽しく過ごした。
それからふた月後、女性からYに電話が入った。
「子どもができてしまったの」と。
そして「このままでは旦那にバレてしまうわ」と。
「暴走族あがりで、コワい人なの。あなただったら、殴られたらきっと死んじゃうわ。私も殴られると思うし。お願いだから−−」
−−お金を、という話になったそうだ。

Yは、向こうからやってきたとは云え、人妻に手を出した自分にも非があるのだし、何より美人の悲しむ声に情が動いてしまったのだそうだ。
それで−−それなりのお金を渡し、これで終わる、と渡しのだそうだ。
突然の損失も痛かったが、彼女の悲しみには換えられない、オトナの経験を思いがけずしてしまったな、などと思っていたところ、自宅のチャイムが鳴ったのだそうだ。
激しくドアが叩かれる。恐れながら覗き穴を覗くと、向こうにはコワモテが立っていた。
「よくも人のオンナに」と。

その場はひとまず居留守で切り抜けたが、そのうち電話も鳴るようになった。旦那から脅す電話であったり、女から折檻を受けるので止めさせるためにさらにお金を払って、と哀願するようなものであったり−−。
困ったので警察に相談してみたが、チジョウノモツレと軽くあしらわれてしまった。
Yは、結局その家から引越しをしなければならなくなった。

「向こうからやってくる幸せは、たぶん何かありますよ」
酒の席で彼はそんなことを語っていた。

そんな話を聞いた1年後、たまたま入った店で似たような話を耳にした。
「街でやたらと目が合うオンナがいて。この前、部屋のチャイムが鳴ったからドアを開けるとそのオンナが立っていたんだ。電気のメーターを見てまわってるバイト中だったんだけど。オレの顔を見ながら、手を握ってきて−−。それでいいカンジになっちゃってさ−−」

世の中には、羨ましいようで羨ましくない話が少なくない。
posted by flower at 20:22| Comment(0) | TrackBack(0) | でかめろん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月29日

夜の言葉

「ああ、あなたにこそ、かつて地上に輝いたどんな愛よりも清らかな愛がささげられるのです」

「こうやって、身体を寄せ合って坐っていると、言葉の力で、一つに融け合うようだね」

「あなたの燃える手で あたしを抱きしめて ただ二人だけで 生きていたいの」

「あなたのことばっかり考えながら眠るわ、あなたのことばっかりね」

「わたしは太陽、君は月。わたしは利鎌のような新月、君は金色の星」

「きみはいい香りがするよ。きみの香水は好きだよ」

「ぼくは君を−−二度と放さない−−」

「君が美しいから、今夜は、何度も君を抱きたくなるだろうな」

「私はあなたの手足をキスで暖めよう、それが燃えるようになるまで」

「君の体は、ビロードケースの中のヴァイオリンのようだ」

「この匂いを忘れていないよ。八年たった今でも」

「ぼくのものになるんだ。いとしい人」

「もう少し暗くできないの」

「ガードルをはずして、パンティを脱ぎなさい」

「君の唇は甘いよ、果物みたいな色合いをしている」

「僕は君をいだいて、口紅の木いちごの味をあじわいたいと思っている」

「プレゼントなんか欲しくないわ。欲しいのはあなたよ。あなただけ」

「今晩は君すばらしくきれいだぜ」

「すごくしつっこくしてほしいのよ」

「君はきれいだよ。さあベッドに横になろう」

**********************
書物に刻まれた夜の言葉である。
男女の色恋を花に置き換えたなら、人類史は花ばかりであろう。
そして、宇宙から見たなら、青い星には色とりどりの花が咲き乱れていて−−。
まさに、百花繚乱なり。

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2012年04月22日

靡香

いい香りのする女だった。
革張りのソファーに長い四肢を持て余すように腰掛け、ときおりアニスの匂いをとどめたアルコールを口に運んでいる。
身に付けているものは紫の薄いキャミソールのみだった。乳房が透けている。
細すぎも、太すぎもしない四肢、潤いを保った白い肌、漆のような黒く艶やかな髪−−姿態を構成する一つひとつも十分に魅力的だったが、項の辺りから漂う沈丁花のような甘い香りが、私を挑発した。

私は彼女の隣に腰を下ろすと、何度も甘い香りを楽しんだ。
女は昂って行く私を楽しむように、私の耳元へ口を寄せて耳朶を噛み、そしてその香りを私の鼻腔に突きつけた。
女は言う。「素敵な香りでしょう」と。
私は肯定を返す代わりに、女の項に舌を這わせた。
女の口から甘いため息が漏れ、次に私の耳孔へ舌が捩じ込まれた。
言葉を発することもなく、黙々と縺れ合う。
しばらくすると細長い指が伸びた彼女の掌が私の顔を包んだ。
「もっと別なところも試してみる?」
女の魅惑的な言葉はさらに私を欲情させる。
そして「世界中の何よりも、素敵な香りよ」と淫らな笑いを漏らした。
女は長い脚を開き、私の頭を迎える。
日陰に咲いた牡丹のような花が私の視界に入り、臭覚は、最前の沈丁花の如き香りよりも甘いものを捉えた。
「もっと楽しみなさい」
女は芳しき香りの源泉を露にし、私をさらに煽るように淫らな行為を始めた。
右の手の二本の指が膨らんだ紫の蕾みを摘む。
左の手の二本の指は紫のキャミソールの下に潜む乳房の、過敏な尖端を摘んでいる。
淫らな声が漏れだすとともに、さらに甘い香りが漂いだした。
私は自身の欲情に屈したように、女の泉に舌先を伸ばした。
水銀よりも妖しく、水よりも濃い液体が舌を伝って口中に入ってきた。
女は言う。「もっと楽しみなさい」と。
私はその言葉に駆り立てられ、淫らな音を立てながら甘い香りのする液体を啜った。
互いの昂りが昇りつめる頃、女は私の頭をその両手で包み、自身の唇へと導いた。
柔らかい肉感が私の唇を迎えた。舌が縺れ合い、互いの肉体を互いの四肢がまさぐる。
「今度はわたしにも楽しませて」潤んだ瞳が私を見つめる。
両の手で硬直した私の肉茎を引き出すと、厚みのある艶かしい唇で捉えた。
キャンディーを楽しむように舌の先を絡ませて、音を立てる。
恍惚とした感覚が脊髄を昇り、脳に堆積する。官能の情感が私の口から息となって溢れた。

しばらくすると女は私を寝かせ、その上に跨がった。
硬直した肉茎が、濡れた華芯に収められる。花びらに包み込まれる。
女の口から、またしても淫らな息が漏れた。

空間中に甘い香りが充満していた。
行為が終わってもその香りは私を刺激し、青い茎を萎ませることはなかった。
女は言う。「どんな香水よりも、わたしは官能的なのよ」と。
私は女を抱き寄せ、その項に何度も口づけを施した。
posted by flower at 20:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 淫詩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月20日

性命

月灯りの射す一室で私たちは世界を眺めていた。
眼下には月光を返す海原が広がり、天空には星々が燦然と煌めいている。
傍らに置かれた蓄音機からは、1960年代にピアニストのルードヴィッヒ・N・シュナイダーが録り残した楽曲が流れてくる。反復する小節は螺旋状の隆起を形成し、脳内に心地よい安らぎをもたらしてくれる。曲名は「世界に関する中間報告 性愛の観点から」。ミニマリズムの古典ともいわれる曲である。
彼のメモ−−性愛さえなければ世界史はボトルの中の水のように穏やかだった。性愛を手にしてしまったばかりに、世界には混沌が訪れ、悲しみが増えてしまった。そして、皮肉にも悲しみにより文学が導かれた。つまるところ、性愛は混沌となり、文学に帰結する。そうでなければ、欲望の排泄的な行為である。
彼からすれば、その時の私たちの存在はどちら側だったのだろう。
愛を持て余した私たちは。
女はいつも私の肉体を求めた。私は女の中にある安らぎを求めていた。
女はいつも私に熱い口づけを施し、私は女の乳房に幼き日の唇の慰めを強いた。
女はいつも私の欲情を煽り、自己の奥深く、濡れた真部へと私を導いた。
私は女の母性に寄りかかり、女の体内に埋没し、包まれようとしていた。
そして今夜も、長く、短い、極彩色のひとときが訪れる。
女は言う、「もっと愛して」と。
私は答える、「愛がわからない」と。
女は言う、「簡単よ。私の唇を優しく、烈しく吸うことが愛よ」と。
私は答える、「フルートを奏でるのに似ているね」と。
私たちは互いの腕の上に頭をのせ、口づけを交わした。
私は優しく、烈しく女の唇を吸った。
女の舌は烈しく、優しく私の腔内を嬲った。
ボレロのように反復される行為は、わずかずつ濃密さを増していく。
互いの腕が交錯し、肉体をまさぐりだす。
女は言う、「もっと愛して」と。
私は答える、「何を求めるんだい」と。
女は言う、「自分を慰めるよりも丁寧に、肉体を刺激して」と。
私は答える、「真白いレースに刺繍を施すようだね」と。
私たちは互いの肉体を、丁寧に愛撫した。
皮膚の細胞ひとつひとつを、それぞれの指で覆うようにして。
髪を掻き分けて項をまさぐり、耳朶を揺らし、耳孔を塞いだ。
喉から鎖骨へと指を滑らせ、乳房で小刻みな小休止をした。
腹部を撫で、下腹部の花びらに最上級の口づけを施した。
女の脚が悶え、私の肉体に絡みつく。
女は言う、「もっと愛して」と。
私の唇は潤った女の花びらに塞がれて何も答えることができなかった。
女は言う、「強く大きな愛を下さい」と。
そして、昂って硬直した私の蒼い存在を自らの内部へと導いた。
ぬめりとした感触が私を飲込み、またしても私は女の中に埋没してしまった。

女は言う、「愛しているの」と。
私は夜空を眺めながら、愛と云う名の星座を探したがわからなかった。
天空にはヴィーナスとアンタレスが輝いていた。
posted by flower at 16:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 淫詩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月17日

崩落

空が落ちてくる−−そんな話をあなたは信じるだろうか。
それは私がまだ若い頃の−−画学生の頃の話だ。
私は絵の勉強と称して、パリへ留学していた。
留学と言えば聞こえはいいが、金のない貧乏学生で、ノートとペン以外は何もなく、パンとワイン、たまにフロマージュを口にするぐらいが精々の暮らしぶりだった。
不自由と言えば不自由だが、それ以上に自由ではあった。
しかし、そんな生活も長いこと続けているといささか飽きてくるもので、私はパリ以外の風景を見たくなったのだ。できるなら、田舎の風景を。
或る日、そんなことをアパルトマンの主人にこぼすと、「ルクセンブルグの近くに、中世の町並みを残した村があるらしい」と教えられたのだ。
ただ、村の名前は彼にはわからなく、以前酒場で一緒になったことがある商人から聞いたそうだ。
私は大変興味を惹かれ、その村を目指すことにした。しかし、正確な場所は判らなく、そっちの方へ向かうクルマを引っ掛けては乗せてもらうという行為を繰返してアプローチする以外になかった。ヒッチハイクをしていれば何か情報も手に入るだろうと淡い期待を抱いていたが、結局は何も手がかりが掴めぬままだった。
パリを出て三日目のことである。泊まった安宿を出ようとしていると、大きな荷物を携えた、商人風の男が足早にフロントへやってきて出ていくところに遭遇した。そのときの私は、誰彼と言わずその村を知らないかと聞くようになっていて、早速その男にも尋ねたのだった。
男は、難しそうな表情を浮かべて少し考えると
「Mという集落じゃないか。確かに古い町並みは残っている。ただ、もう村と呼べるほど人も居ないし、何より−−」
と、そこまでは聞き取れたのだが、フロントの電話のベルが鳴り出して、その後の言葉を聞き漏らしてしまった。男は「ボンボヤージュ」と手を振ると忙しさを強調するように時計の針を確認し、小走りに出ていった。
私はひとまずそのMを目指すことにした。その日三度目のヒッチハイクで、幸いにもその集落を知っているという人のクルマに乗ることができた。
ただ、「もうそこは」と商人と同じように人が居ないし、他に何もない、と言うのだった。そして−−神に呪われているからね、と。
「神の呪い?」私はその言葉を拾って確かめたのだが、彼は大きく頷いただけだった。詳しく聞こうとしたが、苦い表情を浮かべるばかりで、何も教えてはくれなかった。口にするのも忌まわしかったのだろうか。
私は歩いて夕方ぐらいには着けるぐらいの場所に下ろしてもらった。
「あとはこの道を真直ぐ行って、山を越えればいいさ」彼の教えの通り山道を進んでいくと古い絵画の中で見たような集落が不意に眼下に広がった。堅牢そうな建物が畑の合間に立ち、遠くには水車が回っているのが見えた。おそらく、あの西陽をうけたそれらの風景は、芸術の道を歩む者でなくとも心打たれるものだったのではないだろうか。
私はその集落へ駆けて行った。足を踏み入れると、尚のこと感情は昂った。
しかし、である。すぐにその感情は寂しさというよりは、不安の色を帯び始めた。
一切人気を感じないのである。誰も歩いていないばかりか、試みに家の扉を叩いても反応はなく、開けてみたのだが(失礼だとは思ったが)、生活している様子もなかった。
正確には最近まで生活をしていたようなのだが−−卓の上に食事をした後が残っていたり−−少なくともひと月以上は経っているようだった。
訝しみながら、次々と家を覗いてみたのだが、どこも寝台のシーツが縒れたままだったり、ワインがグラスに残ったままだったりで不自然に住民が消失したようだった。大地震にでもあったのだろうか、と思ったりした。
だが、私は奇妙な想いを抱きながらも、この集落に泊まることにした。日が暮れてしまったというのもあるが、この村の美しい風景をもう少し長く見ていたいと思ったのだ。
不安ではあったが適当な家に宿を定めると、その近所の家々のキュイジィヌを物色した。結果、薫製した腸詰めとフロマージュ、ワインが数本見つかった。
普段よりも贅沢なそれらでひとり晩餐をし、私は心地よい気分で眠りに就いた。

と、夜のことである。
不意に何かの声で目が醒めたのだ。眠い目を擦って闇の中を凝視すると四つの目がこちらを睨んでいる。咄嗟に寝台の上で構えたのだが、よくよく見るとそれらは猫であった。二匹の猫が窓越しに私を睨んでいたのである。
私は少し安堵したのだが、気がつくとこちらの窓にも、あちらの窓にも猫らしきシルエットが見えた。
どうやら無数の猫たちがこの家を囲んでいるようであった。
「神の呪い」−−そんな言葉を思い出した。
何ともいえない恐怖が込み上げてきたのだが、その恐怖はさらに天空から落ちてくる音によって、いっそう膨れ上がった。
巨大な地震、或いは嵐がやってきたような、禍々しい空気が部屋中に充満し出したのだ。
私は荷物を持つと意を決して外に飛び出したのだが、煌煌と照っていた月は雲に隠れ、集落の空気は凶悪な緊張感を帯びていた。何よりも、今まで耳にしたことのない天空からの音が私を恐怖の中に押込めていた。
と、足下で猫が鳴いた。見れば、先ほど窓から睨んでいた猫が私を見つめている。
そして、こちらへ来いとでも言うように、先を歩き振り返るのだ。
私がそちらへ歩いて行くと、最前家の周りにいたであろう猫たちも−−その数は何十匹もの大群であった−−一斉に歩き出し、集落と外部とを繋ぐ山道を登り始めた。
今にして思えば、猫たちに導かれるように、私はその集落の外へと出たのだが−−。
唐突に、背後でいっそうの巨大な音が轟いたのだった。
世界の終わりを想起させるその音に、私は一瞬気を失った。気付いたのはそれからどれくらい後だったのだろうか。
辺りを見回したがあれほどいた猫たちの姿はどこにも見えなかった。しんとした樹々の気配があるだけだった。
私は先ほどの音が何だったのか確かめようと、もと来た道を戻ったのだが、雲から顔を出した月に照らされた眼下の集落は−−崩壊していた。
落ちてきた空に潰されたかのように、立体を失って。
私は不思議な気持ちでしばらくその風景を眺めていた。

帰国した後にこの話を知人の何人かにしたのだが、一様に夢でも見たんじゃないのかと言うばかりで誰も信じてはくれなかった。
ただ、今でもあれが神の呪いのせいだったのだろうかと考えてみたりするが−−結局はすべて、神のみぞ知る出来事、なのだろう。


posted by flower at 15:22| Comment(0) | TrackBack(0) | novel | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月03日

性痕

蝋燭が揺らめくテーブルの上にはワインのボトルが2本と枝付きの干しぶどうが入った皿、それとハートやスペイドの描かれたカード。
私たちは、ときおり赤いワインを体内に流し込みながら、ポーカーを楽しんだ。
それぞれの手元には5枚ずつカードが配され、互いに顔色を窺いながら手元のカードの数字やスートを揃えるべく慎重に数枚を捨て、機械的に同じ枚数だけストックから拾った。
私たちはコインの替わりに互いの肉体を賭けた。
勝った方が相手の肉体に口づけができるというものだった。
口づけは指の先から始まり、両の腕、胸、腹、大腿、と下降し、爪先を目指した。また、口づけはその痕跡を残さねばならず、グレードの高い手で勝った時ほど長い時間の口づけと噛むことを許された。
簡単に言えば、最終的な目標は、口づけによる相手の肉体の占領だった。
故に唇への口づけが最終的なゴールだった。

女はワインを一口含むと涼しげな笑みを浮かべた。
「レイズ。右の乳房も賭けるわ」
私は干しぶどうを一摘み食べ、ワインを飲んだ。そして、自身の手元のカードを確かめるとコールした。
互いの手札を開示する。
女はハートのフラッシュで、私はジャックとキングのフルハウスだった。
女は少し戯けたような仕草をすると、真っ赤なナイトドレスを脱いで、黒のガーターベルトにストッキングという姿になった。魅惑的な部分を優しく覆う布はない。
私は女の臍に長い口づけをし、左の乳房を噛んだ。女の口からは呻くように息が漏れた。
続いての勝負は女がクイーンのスリーカードで勝ち、私の首に色の濃い痕跡を作った。
その次も女が勝って、私の右胸に歯形を残した。
互いに衣服はほとんど身に付けておらず、上半身のあちこちに赤や紫の痣が見える。
私はワイングラスを空けると、次のラウンドで強気な勝負に出た。
女の手を嘲り、強引につり上げた。
「どうなっても知らないわよ」そんな言葉も無視して。
ドローの後の新しいカードを確かめずに開示した。
7のフォーカードで、果たして私の勝ちであった。
私は女の太腿を愛撫しながら、敏感な部分に口づけをした。
小さな木の実のような突起の下からは蜜が溢れている。
私は舌の先でそれを掬い、小さな木の実を優しく転がした。グラスの中でワインを転がすように。女が呻き声に似た声をまたしてもこぼした。
私はその敏感な部分へ長く情熱的な口づけをした。
次は女の番だった。昂った薄紅色の感情をぶつけるように強引な勝負に出てきた。
「覚悟はできてる?」
開示すると、ハートのストレートフラッシュで、女の勝ちだった。
女は私の実存を隠すささやかな一枚を脱がすと、烈しい口づけを敏感な部分へ施したのだった。
両の手と唇とを使い、淫らな音を立てながら。私から気力までも奪うような行為だった。
官能が昂り、肉体が先を促す、も女は悪戯な笑みを浮かべて勝負へと戻った。
「まだダメよ」右の目でウィンクして。

私たちはそんな挑発を繰返しながら、互いの欲情を煽ったのだった。
最後に唇に口づけをする頃には、野獣性に充ちた表情になっていた。

posted by flower at 15:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 淫詩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月18日

カノン

店内には客はおらず、スピーカーからはバッハベルのカノンが流れている。
マスター、ぼんやりと窓の外を眺めている。
「どうしたんですか?」とバイトの女の子、心配そうに。コーヒーカップを手に。
ちょっとね、とマスター、呟くように言って、ため息をひとつ。
「昨日、師匠みたいな人が亡くなってね。師匠っていうとヘンなんだけど。友だちでもないし、先輩でもないんだよね。具体的に何かを教わったわけでもないから、師匠っていうのもヘンでね。ただ、お世話になった、というだけでもないし。父親のようであり、おじいちゃんのようでもあり、友だちのようでもありっていう。ヘンな関係の人だね」
女の子がコーヒーを啜りながら頷く。
「何も教わってないこともないんだけど。教わったのは、どれもどうでも良いことばっかりでね。でも、知ってたら世界が愉しくなるっていう。前にも言ったけど、コロッケうどんとか、月亭花鳥の面白さとか、オンナゴコロについてとか」
マスター、笑いの混じったため息を漏らす。
「どこで知合ったんです? その方と」
マスター、一瞬考えて、
「15年くらい前になるかな。不思議な出会いだったね。当時好きなミュージシャンがいて、その音源ばかり聞いてたんだけど。結構昔のミュージシャンなんだけどね。
で、たまたま知合った自転車屋のオッサンていうのが、そのミュージシャンの事務所のスタッフだったていう、それだけなんだけど。とても遠い存在が一気に短くなってね。
知合ったときっていうのは、音楽とは全く無関係な政治関連の集会だったんだけど、ずっと音楽の話をしてたよ。それから、ずっと不思議な関係だったね」
女の子がマスターの目を見つめたまま、頷く。
「自転車屋以外に、カフェとか、内装業とか、デザインとかもしていてね。哲学とか、政治とか、人生論とか話すんだけど、同じレベルで音楽があって、美術があって、俗っぽいものがあって、料理があって−−。世界中のいろんなものが同じレベルで存在してるんだよ。適当でありながらテキトーではないんだね。
波長が合ったて言うのかな。何を話しても良いし、詳しく説明しなくても大丈夫っていう。見た目の雰囲気も似てたから、親子に間違われたこともあったよ」
マスター、煙草を取り出してくわえる。火を点けて、深く吸い込んで−−吐く。
「ちょっと見てみたかったですね」
「たぶん、見ていたら笑えるんじゃないかな。オレがふたりっていう感じで。
だけど、長いこと会ってなくてね。ひと月前に入院したって人伝に聞いたんだけど、また会えるだろう、ぐらいにしか思ってなかったから、見舞いにも行かなかったんだよ」
マスター、火の点いた煙草の先を見つめている。
「この曲は、そのオッサンの好きな曲でね」しみじみと頷いて、
「本当にヘンな人だったな」
女の子、ちょっとだけ笑って、「マスターがヘンな人って言うんだから、よほどヘンだったんでしょうね」と。
「まあ、道楽の人、だったからね。そこで共感してたんだと思う。あんまりいないから。
道楽って結構、知性が必要だから。亜沙美さんには難しいかも」マスター、ヒニクめいた笑みを浮かべる。
「失礼ですね。私、これでも知性の人って言われるんですからね、周りから」
「ヤマイダレの?」
マスターの言葉に、女の子の頬が膨れる。
それを見て、マスター、カラカラと笑い声を立てて。
窓の外では雪が舞って。レコード針が時を刻んでいく。
posted by flower at 12:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 喫茶 ベダード   | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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